2017年12月2日土曜日

科学の視点から現実を見ると、、、

11月27日、バーナデット・ロバーツが亡くなりました。
ちょうど毎日彼女のビデオを勉強していたところで、彼女の死の翌日舞い込んできた訃報は、私にとって大きなショックでした。

彼女は生涯、研ぎ澄まされた目を持って”それ”を見つめ続け、あらゆる宗教的文献を勉強し続け、自分の経験を記録し続けました。彼女の著作は非常に密度の高いものばかりです。

もう一度会いたかった、という思いと、彼女が残した軌跡への深い感謝を日々感じています。

日本語に訳されているものは下記にリンクを記しますが、自費出版された本やビデオは、彼女のサイトからのみの購入となります。リンク(すべて英語。印刷できる記事も2つほどあります。)

バーナデットはもともとカトリックの修道女だった人なので、キリスト教を枠組みにした話が多く、キリスト教の話をしているような印象を与えることも多いのですが、唯一なるものを見つめ続けたのであって、神父でも宣教師でもありません。反キリスト教の印象を与えることすらあります。

「’神’という言葉は本当は使いたくないのよね。」などという発言がポロリとこぼれることもあります。当然と言えば当然ですが、ニサルガダッタ・マハラジを読んでいると、まったく同じことを言っていることも多々あり、おおっ、そりゃそうだよね、などと思ったりします。

うちなる静けさ、あるいは外、自然の中にある静けさを経験から実感している方々は、自分の経験をより明晰に描写するものとして、味わえるかもしれません。

******

さて、私は科学や物理学に精通しているわけではありません。が、科学の視線から描写される現実や意識の研究の話を聞くのが結構好きです。

自分が現実と思っていることが、実際には架空のものである、ということを科学の視点から聞くと、なかなか”おおっ!”という感じのものがあります。

そして意識に関する、生命に関する真摯な研究がみな、知ったかぶりせず、”わからない”というところに帰着しているのも好きです。

日本語字幕のものがほとんどなかったのですが、日本人の方のビデオで楽しめたものを二つほどご紹介します。

興味があったら以下どうぞ。









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2017年10月26日木曜日

What do you yearn for? ーあなたが本当に求めているのは何か 

Do you want to defend your position or do you want to see the world as clearly as possible?
自分の立ち位置を守りたいか、それとも世界を可能な限りはっきり見たいのか?
(アディヤだったかな・・・誰だったかな^^;)


6ヶ月に及ぶ饗宴、教師養成コースがひとまず終了しました。

と言っても6ヶ月で自動的に教師になるのではないこのコース、今後も場所を変えて継続していくようですが、私はひとまずコースを離れ、自分の生活に戻っています。

あちらにサポートに行っていると、ボルテックスに入っているかのように、時間の流れも世界も特殊で、何がそんなに忙しいのかわからないままに忙しく、そこ以外のことがすっかりおざなりになってしまうので、ないがしろにしてきた家の諸々にせっせと対応しているところです。


今回も学ぶことが多かったなぁ。


23人もの参加者が、6ヶ月も普通の生活を投げ打ってやってくるわけですし、それまでの人生をすべて持ち込んでくるわけですから、とんでもなく濃厚な時間となります。

みんなとーっても大きな”私”というアイデアと、世界に関する、コースに関する、この瞑想に関する、悟りに関する、食べ物に関する、癒しに関する、体に関する・・・と、すべてに関する様々なアイデアを持ってやってきます。

もちろん、”私”に関するアイデアは、その人だけのものではありません。その人の周囲の人みんなが関わって、支え合って”私”が形成され、維持されるわけですから、直接的・間接的に、周囲の人もコースに参加しているわけです。

生きてる方も、亡くなっている方も。

もちろん、それは養成コース生だけでなく、リトリートに来る人、サポートに来る教師についても同じです。常時38〜46人が、逃げ場もなくひしめき合って”自分”を崩し続けるのですから、強烈でないわけがないですね。

で、6ヶ月、何をしているのか。

要は集中的な自己解体です。アセンション、という手法を通して自分のパターンを邪魔し続ける。パターンが邪魔されると自然にそこに現れるものに馴染みを深める。

そんな過程です。

当然、楽なことなどありません。本当にみんなよく頑張ったなぁ、という思いと、みなの変化に感嘆の思いがわかずには入られません。

でもこれは新しい生き方の基盤をちょっと作ってみました、と言うだけで、終わりというよりは始まりでしかありません。自分の経験を振り返っても、ハイハイが始まっただけでよちよち歩きすらまだできていなかったと思います。

これから外の世界に帰って、本当に大切な一歩が始まります。

”自分が本当に求めているものは何か”という問いを、人生のすべてのものごとが、毎瞬間私たちに突きつけます。

”私”とその立ち位置(同じものです)を守りたいのか、
それとも世界をはっきりと、本当にありのままに明晰に見、経験したいのか。

創造から破壊まで、生命が脈動する様をただ見る、直接体験することは、”私”にはできません。
同意すること、否定すること、賛成すること、反対すること、信じること、疑うこととはまったく関係ない、相容れないあり方です。

世界をはっきりみたかったら、”私”を捨て続けることになります。

教師になったから、教師として成功しようとか、いい先生になろうとか、いい人であろうとか、自分のスピリッチュアリティをさらに深めよう/高めようとかいったことは、どんなに見かけや響きが良いものでも”私”の確立に関わる話なので、いわばまったく逆の選択になります。

”私”の動きが完全に止まるまで、幻想の旅と選択は続きます。



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2017年10月1日日曜日


『少しずつ、それは自体を顕(あらわ)にし始める。 僕は、僕たちのスピリチュアルな変性には、’目覚め’あるいは’悟り’などといった到達点などないのだ、ということに気づき始めた。終着点はない。スピリチュアルに目覚める、あるいは悟るということは実際、他の動きが起きることーそしてまた別の、また別の、また別の動きが起きるのを許すことだ。スピリチュアルな目覚めは、全く新しいスピリットの動きが起こり始める地盤であり、そしてその、僕たち自身の自由の感覚から生まれる新しい動きこそ、僕が’真の自律性への目覚め’と呼ぶものである。』

『実際、悟りは意識の別の動きを可能にする。この意識の別の動きは、僕たちの人間性(人間味)から目覚める、時間と空間から目覚める、個人としてのアイデンティティから目覚める、というようなことではない。それはほぼ真逆で、スピリットが形に入り、この真の自律性を発見するのだ。』
~ アディヤシャンティ
Falling into Grace


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2017年8月10日木曜日

つくしさんへの返事

ブログを書ける時間がないままにまたもや1ヶ月以上立ってしまいました。
今日は取り急ぎ、質問を頂いた、つくしさんへのお返事を書きたいと思います。

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つくしさん、

時間が立ってしまってごめんなさい。
今日はどこまで書けるかわかりませんが、一部だけでもつくしさんの
質問にお答えしたいと思います。

アセンションとはなんでしょうか?

瞑想あるいは祈りのテクニックとよく言われます。
そうすると、瞑想とは何か、祈りとは何か、に話をまず戻さなくては
ならないかと思いますが。笑

コースを教える時によく話すのですが、私はただ”瞑想”と呼ばれるものに
飛びついて、しがみつくこと長年、瞑想が一体なんなのか、考えてみた
こともなかったのにある時気がつきました。

急いでグーグルに聞いてみました。
運のいいことに、グーグルはとてもいい答えを探してくれました。

”瞑想とはすなわち本来の自分であること”

大感激、大満足でした。
トニー・パーソンズが同じことを言っていたな、と思い出しました。
(聞いた当時はなんのことかさっぱりわかりませんでしたが。)

瞑想とは、すなわち本来の自分であること。
だから特定の姿勢をとって、特定のことをしている時だけが瞑想、
というのはありえない。

じゃぁ、今と何が違うのか。何もしなくてもいいじゃん、
となるわけですが、

これは”自分”をなんだと思っているのか、という視線・認識の話になるわけです。
理論ではなく、受け売りではなく、日常の当たり前の認識として、自分を
何と捉えて生きているのか。

自分というのはパーソナリティか。
職業や社会的役割か。
性別や年齢が特定するものか。
今やっていること、これまでにやってきたことが形作るものか。
記憶の集まりか。

そのすべてが起きるのを可能にし、ただ見つめているものか。
さらには、見つめることを可能にしているものか。


自動操作になっているすべてを止めて、それを見つめてみるのが”意図的に”設けられた、
言い換えると、目を閉じての瞑想の時間だと思います。

さらに、目を開けて日常生活の中で、それを確認し続けること、それが目を開けての
瞑想だと思います。

(ダグラス・ハーディングが言っていたように、自分を知るための方法は、
いつでもどこでも、常に行えるものでなくてはならない、というのは本当だと思います。)


そして大切なすべての大前提は、瞑想は”それ”を起こさない、ということです。

私たちが瞑想をしようがしまいが、”それ”はまったく影響されません。
増えもしません。
減りもしません。
強くもなりません。
弱まりもしません。

私がアセンションしようがしまいが、”それ”にはまったく影響ありません。

その上で、

自分はパーソナリティだと信じて、その嘘の行き詰まりに苦しんでいる時、
あれやこれやの信念(こうあるべきだ、こうするべきだ)が息を吸えなくしている時、
あるいは、どうしようもない探求の衝動が自分の中に組み込まれてしまっている時、
ある種の瞑想はとても大きな助けになります。


アセンションは外に向いている視線を内に向け戻す、非常にシンプルな瞑想法です。
あるいは、自分の思考パータンを邪魔する、パターンに切れ目を入れるメソッドです。
日常の中で、非常にニュートラルな、非個人的な思考を通常の思考と交互に思い浮かべます。それだけです。

本来の自分に戻るのに、何か新しいものを足す必要はあるわけがありません。
ただ、無用に足された条件・パターン・自動操作を一瞬でも止めること、目の前にかかっている幕を一瞬取り去ることで、もともとそこにあるものを思い出します。

目を開けて、目を閉じてそれを繰り返すことで、本来の自然なあり方がよりしっかりと思い出され、それに馴染んでいく、というのがアセンションです。


と、今日はこんなところで。
すべての質問に答えられていませんが、またおいおい、書かせて頂きます。

ではでは。


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2017年6月28日水曜日

間違ったものを見出せない

私の師、カーリーは、出会った頃は強烈な人でした。
鋭さと容赦のなさ、触ったら切れそうなギリギリの感じがありました。

それは彼女があまりにも真剣だったためだと思います。

16年の中で、様々な我が師の変化を見つめることになりましたが、
ここ数年は特に、すべてのものの、あるがままの完璧さを見ている=どんなものにも間違いを見出していない、ということに気がつきます。

ジェッド・マッケナが”僕は完璧な宇宙に住んでいる”と言いましたが、我が師もそれを完全に体現しています。


同時に、ものすごく文句を言ってるように見える時もあります。笑


ある共通の友人について、”カーリーが痛烈に彼女を批判し”、聞いていた私はだんだん居心地悪くなっていきました。二人の間に挟まれているような気持ちになった私の、居心地悪さが頂点に達した頃、ふいに、
”今私は、彼女の何かが間違っていると言ってるように響いていることを
よく承知しているけど、まったくそうは思ってないのよ。”
という言葉がカーリーの口から飛び出しました。自己弁護でもない、自分の説明でもない、彼女の話から途切れることもなく続いたその言葉は、まるで他の機械の解説をしているようでした。

おかしな経験でした。

******

何かがこうあるべきだ、こうでなければ間違っている、
という観念がない人の口から出る言葉は真実に満ちています。

空気のようにニュートラルな観点は、事実だけをシンプルに指摘します。それはスピリッチュアルとか呼ばれる分野特有の話ではありません。

数ヶ月前に4人の移民弁護士さんと関わる機会があって、それを体験しました。
領事館からVISA申請に関して追加資料を求められ、申請が却下される可能性もある繊細な状況だったので、弁護士さんに助けを求めました。

最初の3人の弁護士さんは、皆、過去の経験に基づく”自分の角度”を持っていました。なので質問と関係ないアドバイスが多く、必要な情報を受け取るのに、なんども質問を繰り返さなくてはなりませんでした。

また、弁護士さんは職業柄、情報が命ですから、どれくらいの情報をこの料金の中で渡すべきか、いつも頭の中で計算しているのが見て取れ、ここでもしつこく質問を繰り返さなくてはなりませんでした。

それはこれまで何年か、何人かの弁護士さんと仕事をしてきた私の印象通りで、チャレンジではありましたが、特に驚くことではありませんでした。
むしろ驚いたのは、4人目の弁護士さんです。


4人目の弁護士さんは空気のような人でした。

非常な無理を押し通したのに、会った時にはまるで、そういうことは記憶のどこにも止っていない様子でした。持ってきた資料をすべて読んでくれたのも、この弁護士さんが初めてでした。

すべての情報を空気のように吸い上げたあと、”私にどんなお手伝いができますか?” と聞いてくれました。そこにはどんな方向や意見をも押し付けることがない、完全なオープンさがありました。

私は指定の時間内・料金内で、最大限の情報を得、無用な情報を削ぎ落とすことができました。

最後に弁護士さんは、”助けになりましたか?”と聞きました。
”あー、さすがに自己評価は求めるのね”と思ったら、勘違い。本当に役にたったのかどうか、という事実確認だけで、賞賛を求めているのでも、自己評価を求めているのでもありませんでした。


この弁護士さんは、私に相当なインパクトを残しました。
どこにもひっかかりのない、果てしなくニュートラルなあり方と、そこから出てくる適切で曇りのない情報。この人のあり方は、本当の意味で人に仕えていると思いました。

こんなあり方からなされる仕事は、それが書くことでも、マッサージでも、料理でも、セールスでも、本当の意味で人の役に立つ、と思いました。

以来なんどもなんども、感情や意見が活発になって彩りを加えそうになると、この弁護士さんのことを思い出しています。


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2017年5月26日金曜日

自分にたぐり寄せる

”バガヴァッド・ギータはアージュナの物語ではない。私たちの物語だ。”
ジェッド・マッケナ

”何かを読んでも、見ても、それが自分にとってどうなのか考えてみないのなら意味がない”というジェッドの言葉を、ふんふん、と”観客”として大いに賛同しながら読んだことを思い出します。

ジェッドの本はかなり辛辣で、皮肉やナルシシズムの響きが強く感じられる本なのですが、自分はジェッドと同じ”あちら側”に立っていて、ジェッドが話しかけている観客、”向こう”を彼と一緒に眺めているつもりでいました。

ははは。絶大な無知のなせる技。(^^)/

それは実際、ジェッドの本に限ったことではなく、アディヤの本でも、ニサルガダッタの本でも、映画でも、たいていは同じ立ち位置をとっていました。

バイロン・ケイティのワークを手にとった時も、CDを聞いたり、ビデオを見て感情移入は散々しても、ケイティに”同意”は散々しても、自分でペンを手にとってやってみるまで、自分に向かうまでには何ヶ月もかかりました。

今読み返すと、”これのどこをわかったつもりでいたんだろう?”と仰天することが多いです。無知の特典は自分はわかっている、と思うことですから、まぁ、避けようのなかったことですが。

”本当にわかっているのか?自分の経験ではどうか?”と、出会った言葉、インスピレーション、感銘とともに沈思、黙想、瞑想する時、真に自分にたぐり寄せる時、痛みを伴うような共感が湧くこともありますし、さらに深い洞察を得る瞬間もあります。

でもそこで止まらずに、さらに”自分”にたぐり寄せると、、、、

個としての”私”の共感、理解、洞察、さらなる質問といったすべてが消えます。

・・・・この神秘っぽい、思わしげな、何か特別なことがありそうな響きは嫌いなんですが、、、私の能力不足。

次に起きるのは、恍惚の波に襲われて公園のベンチに一年座ってた、
とかそんな極端なことじゃなくて、ふと気づくと、トイレに向かってるとか、ご飯食べる準備してるとか、そんな普通に”生きること”です。

隙間なく、行為が起きる、あるいは起きない。

いずれにしても散漫に観客として生きる中で、”夢”から覚めることはない。

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今年の教師養成コースが始まって、はや1ヶ月と1週間たちました。
去年のブログを読んでくださった方には、毎年あるイベントのように映るかもしれないのですが、トレーニングは不定期です。

たまたまたくさんの人が希望したので、一度にはできない、ということで二年に分割されましたが、最初に今年のコースを希望していた19人の人が最終的に参加できず、別の23人が参加する結果になりました。いつもながら蓋を開けるまで誰が参加するのかわかりません。

今年のグループはとても成熟している、大人なグループの感じがあります。今年は海外からの参加者が4人いて、さらに豊かな感じです。

10年以上前に参加するはずだったのが、今年来る結果になった人、コースが始まってから唐突に家を売り、車を売り、すべてを売り払ってコースに来る結果になった人もいます。

どうやっても観客でいることのできない環境を選んでやってきた皆に、深い敬意を表します。深い愛情、感謝の念と、痛いくらいの生々しい生に満ちたこの環境に今年もいられることに、深い感謝が湧いています。


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