2017年5月26日金曜日

自分にたぐり寄せる

”バガヴァッド・ギータはアージュナの物語ではない。私たちの物語だ。”
ジェッド・マッケナ

”何かを読んでも、見ても、それが自分にとってどうなのか考えてみないのなら意味がない”というジェッドの言葉を、ふんふん、と”観客”として大いに賛同しながら読んだことを思い出します。

ジェッドの本はかなり辛辣で、皮肉やナルシシズムの響きが強く感じられる本なのですが、自分はジェッドと同じ”あちら側”に立っていて、ジェッドが話しかけている観客、”向こう”を彼と一緒に眺めているつもりでいました。

ははは。絶大な無知のなせる技。(^^)/

それは実際、ジェッドの本に限ったことではなく、アディヤの本でも、ニサルガダッタの本でも、映画でも、たいていは同じ立ち位置をとっていました。

バイロン・ケイティのワークを手にとった時も、CDを聞いたり、ビデオを見て感情移入は散々しても、ケイティに”同意”は散々しても、自分でペンを手にとってやってみるまで、自分に向かうまでには何ヶ月もかかりました。

今読み返すと、”これのどこをわかったつもりでいたんだろう?”と仰天することが多いです。無知の特典は自分はわかっている、と思うことですから、まぁ、避けようのなかったことですが。

”本当にわかっているのか?自分の経験ではどうか?”と、出会った言葉、インスピレーション、感銘とともに沈思、黙想、瞑想する時、真に自分にたぐり寄せる時、痛みを伴うような共感が湧くこともありますし、さらに深い洞察を得る瞬間もあります。

でもそこで止まらずに、さらに”自分”にたぐり寄せると、、、、

個としての”私”の共感、理解、洞察、さらなる質問といったすべてが消えます。

・・・・この神秘っぽい、思わしげな、何か特別なことがありそうな響きは嫌いなんですが、、、私の能力不足。

次に起きるのは、恍惚の波に襲われて公園のベンチに一年座ってた、
とかそんな極端なことじゃなくて、ふと気づくと、トイレに向かってるとか、ご飯食べる準備してるとか、そんな普通に”生きること”です。

隙間なく、行為が起きる、あるいは起きない。

いずれにしても散漫に観客として生きる中で、”夢”から覚めることはない。

********

今年の教師養成コースが始まって、はや1ヶ月と1週間たちました。
去年のブログを読んでくださった方には、毎年あるイベントのように映るかもしれないのですが、トレーニングは不定期です。

たまたまたくさんの人が希望したので、一度にはできない、ということで二年に分割されましたが、最初に今年のコースを希望していた19人の人が最終的に参加できず、別の23人が参加する結果になりました。いつもながら蓋を開けるまで誰が参加するのかわかりません。

今年のグループはとても成熟している、大人なグループの感じがあります。今年は海外からの参加者が4人いて、さらに豊かな感じです。

10年以上前に参加するはずだったのが、今年来る結果になった人、コースが始まってから唐突に家を売り、車を売り、すべてを売り払ってコースに来る結果になった人もいます。

どうやっても観客でいることのできない環境を選んでやってきた皆に、深い敬意を表します。深い愛情、感謝の念と、痛いくらいの生々しい生に満ちたこの環境に今年もいられることに、深い感謝が湧いています。


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2017年4月6日木曜日

在る




「もし、あなたの生涯で唯一の祈りが『ありがとう』であるなら、それで十分である」
ーマイスター・エクハルト



「これ、や あれ、に感謝しているのではありません。感謝しているのです。」
ーバイロン・ケイティ






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2017年3月25日土曜日

分析の無用性



くるくると、人生の周り灯篭は周り続け、私たちは同じ経験をちょっとずつ違ったシナリオで眺め続けます。

例えば、
知っているという誇りは
間違っていたという羞恥心に揺れ戻り、
人を責める気持ちは
自分を責める気持ちに揺れ戻る、
などなど。。。

それは、
行ったり、来たり、2極の間を揺れ続けるようであり、
らせん階段を登り下り続けるようであり。

例えばアセンションをすると(気づきが”それ”に返ると)、この回り続ける輪が一瞬で壊れてすべて消えてしまいますが

そこで一抹の不安がよぎることがあります。

”本当に手放していいのか?”
”どうしてこのパターンを繰り返すのか、また戻ってこないよう、根本まで突き詰めて見つめ直した方がいいのでは?”

根本まで突き詰めることにはとても意味があるように感じられます。
ただ手放すことは無責任な気がしたり、本当にそれでいいのか、という恐れの反応が湧いたりします。

感覚が湧いているのはどこなのか。
感覚が湧いているのはなぜなのか。
このパターンは何を意味しているのか。

これらの追求はとても意味や意義があるように感じられます。
瞑想して集中するのもそうですが、何か生産性を感じられます。
何か達成していっているような、どこかに向かっている感じがします。
”何かしている”ような感じがします。

でも達成感や進歩感、意味、意義を求める限り、楽しむ限り、
私の再形成、という蟻地獄から出ることはありません。

ジェッド・マッケナは、
”戦わなくてはならない時は戦い、登れる限り登れ”
と言います。

人生を手にとって見ることなく、無意識に生きるのは、
下水の中にいるようなものだと彼は表現します。
それが臭くないならそれでいい。問題などあるわけない。
でもこの嘘の匂いが耐えられないのなら、そこから全力で出ろ、
と彼は言います。

夢の世界は楽しいのだから、誰にもそこから出ろなんて言う気はない。
でもその嘘に耐えられないのなら・・・
楽しい夢のすべてを捨てて、そこから出るしかない。

そしてそこから出るのが目標なら、
下水の中に幻の怪獣を見つけるたびにやっつけに戻るのではなく、
ただひたすら上に登れ、
と彼は言います。

どうしても戦わなくてはならないなら戦え、だが登れる限り登れ

”いやぁ、でも戦いなんてないし、究極のところ何も起こっていないわけだから”
”どこかに向かっているなんて幻想だし”
と、かるーく”知ってる人”、”わかってる人”の立ち位置が反射的に湧くとか、

”ふんふん、そりゃそうだよねー”
”あー、なるほどー。わかる、わかる”
なんていう軽い同意で終わるのではなく、

それが疑いない事実、現実となるまでは、
この助言は有効だと思います。

回る絵にくっついて、人生のドラマのメリーゴーランドに乗る事が減っても、
”傍観者”という新たな”私”がすかさず構築されます。
”前ほどドラマに飲み込まれなくなった自分”という新たな立ち位置は、
進歩感を伴う、正当化しやすい”私”の強化です。

回り灯篭のいかなる絵にも
感情という名の糊で”自分”を貼り続けることなく
勝利や進歩が、常に消えるがままに手放し続けるー

どこにも、なにも、向かう者などないままに。


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2017年2月28日火曜日

五蘊 / ”私”の科学

バーナデット・ロバーツは、

”ものごとの渦中にある時は、それが何であるのか理解することはできない。
失ったとき、過ぎ去ったときに振り返って初めて、理解することができる。”

ということを言います。

エゴを機能基盤として生きているときに、エゴが何か、
その特性や働きを理解することはできない、

自己という感覚の中で生きているときに、自己とは何か、
その特性や働きを理解することはできない、

と繰り返し主張します。


彼女は、”自己を完全に失う”という経験が起きたのち、自分に起きたことを理解しようとして、手当たり次第の文献を手に取って勉強しました。

その中の一つが仏教の教えですが、その中で自己、”私”の構成を描写した
五蘊を目にしたとき、最初は”正確な描写であるけれど、これも違う!”
と放り出しました。

その後ふと、
「”私”を構成している要素を正確に描写するのは、自己を超えないと不可能」
ということに気がつき、これを書いた人は自己の喪失を経験したに違いない、と
気づくに至ったそうです。

彼女は、
”仏教の教えの中で最大の価値があるのは五蘊だ。それ以外は知る必要ない”
とまで言っています。

このあたりはとてもバーナデットらしいのですが・・・


それはさておき、

最近この部分がまた気になって再読し、そこから五蘊について調べてみたところ、
ウェブですごくいい記事をいくつか見つけました。

これこれ

特に2番目の記事、ベストアンサーに選ばれたjojon_folkさんの回答には、そのさらりとした深みにびっくりしました。だって、yahoo知恵袋ですよ!仏教サイトでもブログでもない。笑

アマゾンのレビューなどで、たまに書いている人の経験や智慧の深さにびっくりすることがありますが、こういう風に何者でもなく、ただ深い智慧とともに生きている人というのが、いつでもどこかにいるんだよなぁ、と深く感じ入りました(蓋を開けたらどこかの有名な人とか、先生とかだったりするかもしれないけど。笑)

”実体とは、そのものの主体であり、常にあり、そして他に依らずそれ自体であるもののことです。見られたもの(客体)、生じたり滅したりするもの(無常)、縁起に依るものを実体とは呼びません。・・・・・(略)・・・・・

五蘊を空と観ることは、深い思惟によって得ることができます。分かるというよりも、気づくという体験です。気にしていれば、気づく時がきます。

合掌” yahoo知恵袋より抜粋


溶けました。


英語で読む仏教はすっきりして論理的でとても好きなのですが、
日本語で書かれた、深い智慧を含む記事に当たると、この深さは英語では伝えられていないのによく気づきます。般若心経はいい例ですが、今回みたいな記事に出会う時、日本人でよかった、日本語が読めてよかったぁ、と深い感謝が湧きます。


最初の記事は仏教サイトのよく名の知れた長老の記事ですが、私は、この方の仏教の定義が好きです(これは五蘊とは別のページ)。

仏教は科学であり、概念でも信仰でもない。
誰にとってもいつの時代も何によっても変わるはずのない真理を、
自分で手にとって実験して体験により確認するためのものである、


というのが、私が理解した内容の要約です。


良い記事に出会いました。

********

しばらく前からナショナル・ジオグラフィックの「ブレイン・ゲーム」という番組にはまっています。

”私にとっての真実”がいかに現実と一致しない、あてにならないものであるかを、科学の観点から説明しているのですが、ゲームとともに実体験で”私の感覚”のあてにならさを見ていくのは、なかなかショッキングで目が覚める感じです。

日本のNetflixにあるかな?おすすめします。




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2017年2月19日日曜日

確認


”おそらく、この在り方を最もよく表す言葉は’強さ’です。継続的で、受身的な感じの、中心にある内的な強さです。” 
– バーナデット・ロバーツ「The Path to No-Self」





ここチャタヌがは、冬をほとんど飛び越して、春になってしまったような感じです。

今年は年明けからすごい嵐が続いています。

新大統領就任にまつわる嵐もそうですし、

個人的にも、ここ何年もなかったような大嵐が家族内で起きています。
(記憶がどんどん曖昧になっていくので、多分、ここ何年でなかった大きな出来事だと思う、というのが現状ではありますが (^^;) )

こういう時に、なにが”現実”なのかをチェックしてみることは、
私にとってはとても大切なことです。

例えば頭の中で ”これはこうでとんでもない!”とか、
”それは嫌!” とかいう思考が湧いて、
それがしつこかったり、音量が異常に大きかったりしたら、


やってることのすべてを止めます。


頭の中の嵐と、目の前の花の静けさと。
その両方を等しく可能にしているものを
ちょっと見てみます。
どちらを存在させているのも、
どちらに存在する力を与えているのも
まったく同じものであること
を見てみます。新たに発見します。

ふと意識がそれると、次の瞬間注意がまたそこに引き戻されるまで、
嵐は存在もしていないこと、
を確認します。新たに発見します。

例えば体の中に緊急感を伴うセンセーションが湧いて、
それに伴って”これをすべきよ!” という思考がわいたから

その衝動に従って即行動、というのはまずありません。

この感覚には異常な説得力があり、”今すぐ”何かをしなくてはいけない、
”今がその時なんだ”、と訴えます。

今すぐやらないといけない、今言わないといけない、
外しちゃいけない、逃しちゃいけない。。。。

それは例えば誰かを助けなくてはいけない、
教えてあげないといけない、
何かしてあげなくちゃいけない、

という思いの時もありますし、
逆に、できない、いやだ、
と言った後の罪悪感の逆風の場合もあります。
(できない、いやだ、自体には苦しみはありません。)

私はマインドが「できない」と言いたいとき、
本当にできないのか、「したくない」だけなのか、
しぶとく自分の中で確認し(多くの場合、私の中の”できない”、は”したくない”、
の綺麗なごまかし表現だったりするので)、
”したくない”が本当の場合はそれをはっきり伝えるようにするので、
その後の罪悪感の逆風も強烈だったりします。
(繰り返しーしたくない、には痛みはありません。その後の余波は
注意を奪われると苦しみに満ちています。)

その強烈な不快感から逃れるために、”何かをしたい思い”が、
これもまたひどく強烈になります。
”言い訳がしたい”
”説明がしたい”
”代替え案をあげたい”
”やっぱりしてあげるべきか”
”映画に行こう!” 


この衝動に対して、私は完全に力を抜いて、打たれっぱなしになります。
多くの場合、思考の形になる前に、焦燥感や不安感、その前の体のセンセーション(言葉にならないモヤモヤ、体の中の落ち着かない感じ、走る衝動、肩の力み)の段階で。

それに沿って行動したい衝動と真反対に。
それと戦って制覇したい、コントロールしたい、
乗り越えたい、変えたい、
という衝動と真反対に。


「そうしたらどうなるの?」


という解決策思考はマインドのもので、

ただあることはただ”在る”こと、それだけです。

マインドにとっては非常に残念なことですが(笑)。


それだけです。


そして気づいたら、何かをしている時もある。
何かを言ってる時もある。

その何かが喜ばれたり、感謝されたり、”私”に満足できるもので
あったりすると、

今後は逆の風向きの嵐が大きくおきます。
恍惚の嵐
いい気分の嵐
愛の嵐
ふわっと光に包まれているかのような
”ああ、よかったわ”


また、やってることのすべてを止めます。


愛と呼ばれるものも、痛みと呼ばれるものも、
可能にしているものは同じであるか、
見てみます。

愛の周りではそれは濃くて、
痛みの周りではそれは薄いのか、
見てみます。

”私”が何かをしてそれを増やせるのか、
確認してみます。

増やせるなら、それは移ろいゆくもので、
唯一不変のものではないことを
また確認します。


すべてに、常に、たゆみない、一点の間違いもない動きが起きていて、

それには、”私”が思考を使って盛り立てる感情のエネルギーは、
まったく不要であるのを、何度も何度も気がつきます。

気づくたびに、より精妙なレベルで本当であるのに気づきます。


こういう確認の機会が起きることに、ありがたい、という思いがわきます。



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2017年1月19日木曜日

明けましておめでとうございます / オープン・シークレット3

すっかり明けきってからのご挨拶となってしまいましたが、みなさん、良いお正月を過ごされましたか?

今年は正月の空気を求めて、テレビでNYタイムズスクウェアのカウントダウンを見守ったのに、肝心の、新年と同時にボールが落ちるとことは放映されず、”なんじゃこりゃ!!”と叫んで新しい年を始めることとなりました (^^;)。

ブログを読んでくださってありがとうございます。
今年もよろしくお願いします。

*****

新年初ポストは、昨年からまだ続く、トニー・パーソンズのオープン・シークレット(^^)。日本語版をゆっくり読んでいるのですが、、、


腹にドスンときました。

びっくり。


私にとっては日本語が母国語なので、英語で読むのとはやはりまた違ったインパクトがあります。

トニーというのは不思議な人で、いろんな色にあふれています。メッセージは一つでも、表現には、喜びだけであろうとかそういう作為的なものは一切なく、生命が流れるままにすべて表現するからです。すべての表現で”ある”からです。

軽やかで容赦がなく、優しくて意地悪です。

それはすべてに分離を見ていないからです。

どれが上でどれが下、どれが善でどれが悪、という観念が存在していないからです。

その独特に透明な豊かさは、ビデオや本からは伝わりきれず、私は実物は大好きですが、ビデオとかは退屈に思うことがよくあります。誰でもそうだろうけど、彼は特にギャップが大きいと思います(あくまで私見)。

そんなトニーの本ですし、ましてやまったく異なる言語を、まったく同じに翻訳することなどありえません。翻訳者を通過してそれがどんな風に変換・表現されるか、そしてさらに私というフィルターを通って、どんな風に受け止められるか、、、、私たちのコミュニケーションってやつは、他のすべて同様、とんでもない奇跡の技が起きてるわけですね。

日本語版は、トニーから表現される妥協のなさ、強靭さといった、最も大切な要素が直球で伝わる本だと思いました。

母国語の滑らかさに、気づかぬうちに引き込まれて没頭していたら、ドン、とみぞおちにキックを食らってはっと我に返りました。いや、びっくりしたー(笑)。

他の方も書いていたと思いますが、私は”はじめに”が特に大好きなんですね。初めて読んだ時はとてもショックでした。

英語の原版と並べ読みして、原書から頭に抱いてたイメージと、ひろさんの訳を比べ、じっと黙想してみたりするという、超マニアックな読み方を続けています。

ひろさん、ありがとうー!


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