2014年12月27日土曜日

悟った人のあり方

私にはこれまで、たくさんのスピリチュアル・アイドルがいました。私が師と仰ぐカーリーはじめ、U.G.クリシュナムルティ、バイロン・ケイティ、アディヤシャンティ、トニー・パーソンズ、デービッド・ホーキンズ、等々。

大抵のパターンは、
誰かにその人はすごい、目覚めている、というようなことを聞く→試しに本を読んだりビデオを見たりする(=飛びつく)→すごい!と納得→その人がどうやって目覚めたか、ということに関する話しを微に入り細に入り尋ねたり、調べたりする→その人のすごさについて証拠集めをし、納得し続ける→自分をその人と比較し、近づけようとする。
といったような感じでした。

私の周囲にも、同じ穴のむじながたくさんいました(笑)。

振り返って面白いと思うのは、私の中には”悟った人とはこういうもの”という尺があり、それに基づいて本物と偽物を”確実に”見分けられると思っていた点です。目覚めていない私が、目覚めている人はこういう風に見え、話し、行動するべき、と確信を抱いていたのですから、そのへんてこりん振りといったらないのですが、それをおかしいと思うことはまったくありませんでした。

私の周囲の人たちも同様に、自分の”本物を見分ける眼力”に非常な自信を持っていて、グル批評を声高に語っていました。

『誰それはこんな発言をしたから、本物じゃない。』
『こんな行動を取るなんて、昔は本物だったけど、今は”堕ちた”わね。』
等々。やれやれやれやれ・・・・。

私の尺の一つは、”特別な空気”でした。悟った人たちは周囲に特別な空気(オーラ?)を放つように感じて(信じて)いたのです。

なのでバーナデット・ロバーツに会った時は、心底困惑させられました。

特別なオーラはまったくない。無条件の愛どころか、攻撃的とも取れる発言をバシバシする。すべてを明け渡すどころか、強固な意志の人、という感じのエネルギーが全身にみなぎっているようにすら感じられる・・・・。その言葉は真実に満ちている一方で、彼女を偶像化するチャンス、隙など一切ない。ただのそこいらにいる、頑固なおばあちゃん、という感じ。

彼女の家族は、誰ひとりとして彼女を目覚めている―スピリチュアルであるとすら思っていないそうです。コースを教えに来る道すがら寄った娘さんの家で、「スピリチュアル・コースを教えに行くところだ。」と言ったら、鼻で笑われたそうです。「私の名前をグーグルしてみなさい。」と言ったら、娘さんはお母さんに関するwikiページがあったのに仰天して顎がはずれそうになっていたそうです。

彼女のコースでは、礼拝があったりします。トニー・パーソンズのリトリートで出会った人は、バーナデットに非常な興味を抱いていましたが、礼拝がある、と話したら心底引いていました。礼拝は非二次元に合わないわけです。

私たちの思い込みは不思議です。
私たちの全宇宙を形成しています。

もし、手に取って眺めてみる・・・立ち止まって再検証してみる、といったようなことをしなかったら、一生を、自分の中に形成された思い込みに捧げて終わってしまうのだな、と思います。私たちの自分の信念・思い込みに対する献身の深さと言ったら、他に例えようもありません。自分を見てみて、深く実感します。

間違った神様に一生を捧げて終わってしまう・・・
立ち止まるチャンスがあった幸運に、深い感謝を覚えます。

2014年12月22日月曜日

らせん

夢の中にい続ける限り、私たちは同じことの循環を繰り返す。車輪の上では、すべてのものが違うイメージを伴いながら、常に同じことを何度も何度も繰り返している―とは、トニー・パーソンズの言葉ですが、今年彼のThe Open Secretを読み返したとき、それがなんとも深く心に響きました。

数年前のことですが、私は母と国際電話で話すたび、母が同じ話ばかり繰り返すことに少々辟易していました。
「お前がいない間に、本当に色々あったのよ!」
と、母は深い感慨のこもった声で話をはじめるのですが、少なくとも90%は、何ヶ月前、あるいは何年か前に聞いた話ばかりなのです。

年を取ったから、などと多くの人は片付けるのでしょうが、私の中には母にそれを気づかせたい、という我があり、またあまり楽しくない同じ愚痴を聞くことに食傷気味だったので、うまく聞き流す、ということができずに苦痛に感じていました。また、”同じ話ばかりしていることに、本当に気づかないのだろうか?”と心底驚きを感じてもいました。

そんな話を私の師、カーリーにしたところ・・・彼女にまじまじと顔を覗き込まれました。その顔は、”あんた、自分は違うとでも思ってるの?”という無言のメッセージをしっかり、はっきり送っていました。
”なによぉ・・・”
と思いました(笑)。自分は母と絶対に違う、同じ話なんか繰り返してないわよっ、まだそんなに年いってないんだから!―と、本気でむっとしました。

その後もしばらく、この驚きの事実について友人たちに話したりしていたのですが、やがてあるとき、自分の思考やパターンも、常に同じことであることに気がついて愕然としました。

何度も何度も同じ問題に繰り返しぶちあたる。
いくら瞑想しても、ありとあらゆる努力をして、ちょっと改善したような気がしても、ちょっとすると同じことを繰り返している。悩みも、文句も、ちょっとシナリオが変わるだけで97%は一緒な気がする・・・

やがて問題だけでなく、人生そのものが、同じパターンの繰り返しである、という感じが強まってきました。いいことが起きて、嫌なことが起きて、いいことが起きて、嫌なことが起きて・・・。

ただひたすら、同じことを繰り返す。自分、というものが本当に何なのか心底知るまで。

物事の本質に目覚めて、”風穴”が空いた後も、この繰り返しは続いたりします。カーリーは、”これまでたくさん感情的、エネルギー的投資をした物語は、慣性の法則で、それが止まるまでちょっとかかったりするものよ。”なんて言っていたのですが、止まるのかどうかすら、私には知りようもありません。


同じ物語が繰り返す中で、はっと我にかえり、”それ”の視点に戻る。そしてまた、物語に飲み込まれて、また我に返る。すべてが自然にその行程を終えるまで―あるいは終わらないままに。

2014年12月19日金曜日

不思議

ちょっと前に、最近あった経験について書きました。それはものすごい自己溶解の経験とか、大きなワンネス体験とかではまったくないのに、これまでで一番不思議な体験でした。その後の変化も非常に慣れないもので、不思議な感じがしています。

それまでの私にとっての大きな気づきの体験というのは、どこかにある種の高揚感とか恍惚感とかを伴う感じのものが多かったのですが、そういうものはほとんどなくて、どちらかと言うと、底が抜けたような感じがします。

一番の違いは、『お化け』がいなくなったこと。

先日のお絵描きとはまたちょっと違うんですけど、これまで常に”私の何かがおかしい”と思っていて、間違いをおかすことを恐れて生きていたのに、それが唐突に抜け落ちてしまった感じです。”私の何かがおかしい”と思っていると、あれをやっても、これをやっても、何か間違っているんじゃないか心配で、その陰に常に脅かされながら生きることになります。

間違いをおかさないように生きる、というのは、きっと多くの方が経験しておられると思いますが、とてもしんどいことです。常に頭の中のコンサルタントに価値のない相談をして、恐る恐る、地雷を踏まないようにつま先立って歩いている。やることなすこと、逐一確認して、やった後にもしつこく見返し検証する。そこいらじゅうに怖いものが溢れている・・・。

この”心配感”が、唐突に、一切、なくなってしまったと想像してみて下さい。

あるいは、身体機能的に、そういう心配が不可能になってしまった、神経回路が抜けてしまった、というのでもいいと思います。

自分の言ってることや、やっていることがスピリチュアルかどうかなんて、これ以上馬鹿げたことはなく、気にする事自体が不可能です。自分を脅かしていたお化けもいない、コンサルタント(マネージャーでもいいですが)もいないし必要ない。

最初はとても静かな安全感に包まれて、穏やかな経験をしていたのですが、当然、いつもの騒がしい発想も帰って来て、それをどうしようとも思わない、思えもしない自分に、かすかに”本当にこれでいいのかな?”という思考はわきました。”ここであぐらをかいて傲慢になってしまうんだろうか”・・・心配ではないけれど、思考はありました。それを気にする能力もないままに、また日が過ぎて・・・

思考がごった返しに湧いて、”心配”を取り戻そうとしている感じがすることが何度かありました。なんとか古い思考パターンに引きずり戻そうとしている感じとでもいいましょうか。ただ、それが起きるたびに、遅かれ早かれ興味が、”おおっ、これは一体何が起きているのだろう?”というところへいってしまいます。思考の中身より、起きていること全体に興味がいきます。

そしてその感覚は、これまでの”ああ、こんなに思考が湧いてしまって!早く切り替えなくては”みたいなもの、これはよくないから自分を変えようとか、スピリチュアルな後退だわっ!―みたいな発想とは全く違います。

正直言って、死ぬほど楽です。嫌な思いをするのも楽です。
何かが間違ってるから、それを直さないと、と思って生きることが正しいと、何十年も信じてきたのに、なんとも不慣れで、不思議な感じです。


祝!ヒロさんの新刊

2014年12月16日火曜日

世界の中心

私が”私”である、と信じているとき、世界はこんな風です。

   
    私がすべてを選んで動かしている。  周囲の物事が私に向かって起きる。
    私に決定権があり、責任がある。  人や物のせい/おかげで、不幸/幸福になる。

個人的には、自分を犠牲者のように感じていた頃は、右側が強く感じられました。調子がよく、自分が物事を管理できているように感じていたときは、左の感覚が強く感じられました。でもいずれにしても、世界観は基本的に同じですね。

”私”という世界の―あるいは宇宙の中心があって、”私”が”私以外のもの”と関わっている。”私”次第で世界が変わる。世界は”私”が動かしている。瞑想も、スピリチュアリティも、非二元も、他のすべてと同じく、”私”が手に取る、”私”のための道具です。”私”がよりよくなるため、より幸せになるため、よい気分になるため―。

”私の内側”も、ある意味、外側のすべての物と同じです。
”私”が”私の内側”を見つめている・・・別の物のように。

”私”という感覚がないとき、世界が・・・というか、力の流れがひっくりかえります。

赤い線は、すべてに満ち満ちている、生命のエネルギー・・・のつもりです(- - ;)。生命のエネルギーには無限の可能性があり、そこから”私”とか、すべてのものが現われては消えます。”私”は大きな海に浮かぶあぶくの一つで、それが他や、ましてや全体をコントロールする、などというのはあり得ません。

初めてこれをはっきり”見た”時は、びっくりしました。今年の春にトニー・パーソンズに会いに行ったときだったと思います。なるほどエクハルト・トールとか、色んな人が、「”私”は神様の振りをしたがる」「”私”は自分が神だと思っている」と言っていたなぁ、と思いました。

気づきは”起きる”のに、”私”は”起こせる”と思っている。
”私”をなくすことすらできると思ってる。すごい・・・・

でもそんな”私”を問題視している間は、視点が最初の絵、”私”という世界の中心に逆戻りしていて、生命のエネルギーはたまに訪れる場所とか、戻りたい場所、いつか永続的なものとして達成される状態、などといったもののように考えていました。

やがて”私”を問題視するばかばかしさが見えて。
さらにあまりにすべてがOKに感じられるようになって。
そうしたらある意味、こんな感じなんですが・・・


同時にすべては個々に違いが際立っている感じでもあります。
そして何よりも、そういった識別をすることが、どうでもいい感じがします。

物事の理解が高まるというよりは、どんどんどうでもよくなり、わからなくなる一方です。物事はあまりにすごいスピードで生まれては消え、来ては去って行くので、”わかろう”とすることは、それを止める―生きているものを檻に閉じ込めるようで、そうする気が起きない、といった感じです。

2014年12月13日土曜日

お化け(1)

ただの遊びです。。。。


嫌なものがあったので、お部屋に放り込む。ああ、これで見ないで済む。


どんどん嫌いなものを投げ込んでいたら、「怖い部屋」ができていた。
何があるのかよくわからないけど、怖いことになってる。

怖い、怖い。
あの部屋にはきっと大嫌いな蛇がうじゃうじゃしてるのよ。


ドアを閉め、忘れるように、見ないようにしているんだけど、
でも後ろにいつも何かが・・・


誰かが、「ドアのせいだよ。祀るといいよ。」と言ったので、試してみる。
お花を添えたり、アロマを焚いたり、超能力シールを張ったり、拝んでみたり・・・


でも怖いまま。

誰かが言った。「ドアを開けて、中を見ないとダメだよ。」


でも開けたらきっと蛇が出るよ。

開けられない、でもなくならない。
開けられない、でもなくならない。
それならいっそ・・・


部屋をちょっとだけ開けてみる・・・ちょっとだけ。
蛇が飛び出すよ!急いで閉じる。
??・・・何も飛び出さなかった。

もう一回開けて、一番手前にあった「怖いもの」を急いで掴んでみる。
ああ、蛇に噛まれる!


ただのヒモ?蛇じゃないの?


もっと取って見る。
取っても、取っても、出て来るのはヒモ、ヒモ、ヒモ。
いろんな色のヒモ。


部屋に入って電気をつけてみる。
色とりどりのヒモがたくさん。

なーんだ。


自由に出入りできる明るい部屋と、使えるヒモがたくさん。


2014年12月10日水曜日

ああ

不思議な一日でした。

朝いつものように瞑想していて、時間より早く瞑想を終えました。まだ心がざわついていたので、時間いっぱいまで瞑想を続けるべきかどうか、ちょっと葛藤がありました。

その時、目の前に伸びている自分の手、足とそれを覆っている毛布を見ながら、ふいに”This is it."という言葉が浮かびました。

This is it.

迷いがあるまま、葛藤があるまま、思考がうるさいまま、それだけ。本当に、ここにあるもの、それだけ。バーナデット・ロバーツの言葉を借りるなら、現実は目の前に見えているものそのまんま。裏も表も、読み解くべき謎も、隠された意味もない。改善しよう、改善できる、変えよう、という一切の呪縛が解けて落ちました。

それからクリスマス・ショッピングに一日忙しく駆け回り、夕方ジムでトレッドミルに乗っていました。前にもちょっと触れましたが、私の通うジムでは”私たちが退屈しないように”テレビモニターが何台もつけられ、爆音で音楽がかかっています。いつものように携帯とイヤホンを用意していましたが、youtubeを見る気にも、その他何かを携帯で見る気にもなれず、そのまま爆音と騒音の中で、テレビモニターを遠くから眺め、歩き始めました。

爆音と騒音の中で歩くうち、ふいに、
”ああ、本当にこれがすべてなんだな。”
とストンと落ちました。爆音の中に安心して身を任せきっている自分がいました。

周りにごちゃごちゃ人がいて、テレビのニュースやら、ドラマやら、人々のおしゃべりやらが溢れ返っている―これの何がいけないんだろう?何がいけないと思っていたんだろう?何を嫌がっていたんだろう?

これまで生きる中で、怖いものがたくさんできて、それを避けること、それから自分を守ること、それらを変えることに必死でした。お金が一杯手に入ったら、理想のパートナーが手に入ったら、仕事でものすごい成功したら、有名人になったら・・・きっとこのお化けを見ないで済むようになる、と思っていました。

その最終手段がスピリチュアリティでした。最上・最高の手段と聞き、そう信じていましたが、悟りを迎えた後には、果たして何が残っているのか、どこへ行くのか―考えたことがなかったような気がしました。

”お姫さまは王子さまと結婚して、その後永遠に幸せにくらしました”

永遠に続く至福、光り輝く悟った自分、というような空想の旅が終わり、仙人にはならないらしい、とわかった後、どこかのコミュニティのグルにはならない(なりたくない)とわかった後、目覚めて一体どこに着地するのか。

普通の、日常です。

家が嫌いで遠くへ行くことを夢見ていたのとまったく同じで、どこかへ行くことばかり考えていましたが、楽しい空想の旅の果てにあるのは、悟った人だけが住む特別な次元でもなく、”ごく普通の日常”への帰還でした。静謐さや神聖さばかりでなく、騒音や雑音に満ちて、混沌としていて、嫌なことも不快なことも楽しいこともたくさん起きる、この日常。

やっとそこへ帰って来ました。
ああ、旅が本当に終わった、という思いがけない、静かな感慨―経験のない、言葉で表現できない感覚がありました。

旅の終わりはユートピアにたどり着くことではなく、人としての人生にあることでした。生まれたときと同じ世界、スピリチュアリティの前と同じ世界、ただ一つの違いは心のお化けがいないこと。架空のお化けがいなくなったので、当たり前の世界にちゃんといられる。

目が覚ましてみたら、世界は安全で、安心できるものでした。


2014年12月8日月曜日

バイロン・ケイティ 

バイロン・ケイティについて知ったのは12年くらい前だったと思います。私はスピリチュアル・ミーハーでしたので、すぐに飛びついて彼女の本やCD(当時はまだカセットだったかな?)を買ったりしました。そしてしばらくするといつものように熱は冷め、別の”すごい人”に走って行きました。

それから6年くらいたって、旦那がイシャヤの教師養成コースに行くことを決め、私はパニックを起こしました。アメリカという異国に住んでいることも手伝って、私の旦那への執着は相当なものだったので、”6ヶ月置いて行く”=”愛情がない、捨てられた”、という思考の図式にどっぷりはまり、自分で作り出した思考と感情の地獄の中で、もがき苦しみました。

自己憐憫にひたり苦しむことが長らく続いた後、ある時、車の中に置きっぱなしになっていたケイティのCDをふと、カー・ステレオに差し込みました。そして彼女のワークを再発見し、まさに命を救われました。

朝から晩までー文字通り目が覚めた瞬間から眠りに落ちるまでー取り憑かれたように、彼女のワークを続けました。最初はCDを聞くばかりで、自分で実際にワークをするようになるまで、しばらくかかったと思います。やがて”自分でやってみなくては”という決意が湧いて、オンラインの自主コースに登録し、実際にワークをするようになりました。やがて仕事場でも、上司や同僚に腹がたったら、すぐにワークをするようになりました。旦那と電話で話していても、古いパターンが湧いて来たらそれを説明して電話を切り、スターバックスに出かけてワークをするようになりました。

旦那に対して自分が抱いていたのは愛情ではなく執着だった、ということ、この二つはまったく異なるものであることを、彼女のワークを通して気づき、目からうろこが落ちました。

”私のことを愛しているなら、あなたが本当にいい旦那なら、自分のしたいことをすべてあきらめて私に尽くすべきよ。”

というような発想を”愛”と呼んでいたのだから、恐ろしいものです(^^)。私の場合は”お前のせいでやりたいことができなかった”、という後悔や恨みを抱かれるのは嫌、という思いから旦那が行くのを認めこそしましたが、内面的にはこの考えを強く信じていました。

この”愛という名の勘違い”は、夫婦や恋愛関係に限りません。そしてケイティのワークでは、それがいかに”笑える間違い”であるかを見ることができるのもいいところです。

ある女性は彼女の年老いたお母さんが、”社交性に欠け、自分の人生と呼べるものを持っていないからいつも不幸せでいる。”ということに苛立ちを覚えていました。そして”もっと出かけたらどうなの?犬でも飼ってみたらどうなの?”などといったアドバイスをしては、耳を貸さない母親に業を煮やしていました。

ワークをする中で、ケイティは、
「つまり、あなたが満足してイライラしないですむために、お母さんは行きたくもない場所に出かけて、好きでもない犬を飼わなくてはならないわけね?」
と指摘し、さらに
「で、私たちはそれを愛と呼ぶわけね。」
と続けて、会場は大爆笑に包まれました。私たちの誰もが、多かれ少なかれ同じことをしていること、そしてそれがいかにバカバカしい漫才であるか、皆よくわかったからです。ワークをしていた女性は大笑いして涙を流していました。

ケイティのワークを”再発見”してから半年後、ケイティと実際にワークをする機会に恵まれました。貴重な機会を無駄にしないように、格好つけないで、我を丸出しにして臨んでみました。彼女とロールプレイをする中で、我を張り続けると、自分の一番愛しているものを遠ざけ、失う、ということを体感しました。

翌朝、二日目のセッションで、ケイティに感想を聞かれました。一夜経ってみて、自分は旦那と戦っているように思っていたけれど、実際には自分の頭の中にある思考やイメージと戦っていたのだ、だからどうやっても勝つ望みなどなかったのだ、ということがはっきり見えた、ということを伝えました。

それからまたしばらくして、自然とワークから離れ、またイシャヤのアセンションに返っていきました。今でも彼女への感謝の想いは深く、フェイスブックで彼女の日々の言葉を楽しんでいます。

ちなみに、これは昨日のものです。
God said, "Katie, you must save the world." So I dropped all my plans to save it. World saved; done. Next?
神様が言いました。「ケイティ、世界を救いなさい。」そこで私は、世界を救うことに関するすべての計画を捨てました。世界は救われました。任務完了。次は?

I love Katie.

2014年12月5日金曜日

ふむむ

ちょっと忙しいのが続いて、身体が疲れるとともに、習慣的な思考が大騒ぎしています。もともとこの季節が苦手なので、マインドの大騒ぎが倍増しているように感じられるのですが、正直なところ、これがこの季節のせいかどうかなんて、よくわかりません。

マインドはいつでも理由を探します。
今日は低気圧だから、体調が悪いから、疲れが募っているから・・・

でもだんだんと、そういった理由づけが信じられなくなっています。いつもより思考が騒いでる、ということすら、本当かどうかわからない。

「いつもよりマインドがうるさい」という思考が湧いただけで、それが事実ということではないのでは?

理論としてはそんなこと、とうの昔に気づいていた、”わかっていた”と思うのですが、頭でわかっているのと、はっきり”見る”のとでは、なんだか本当に違う。

思考がわーっと湧く時、一体本当は、実際には、何が起きているんだろう?

「思考」って呼んでるものは、なんなんだろう。見ることも触ることも味わうこともできないのに、知覚しているのはなぜなんだろう?耳で聞いているような気がすることもあるし、まぶたの裏に浮かぶ文字を見ているような気がするときもある。

ただこれがわーっと湧いて、そうすると身体と呼んでいるものに感覚が走って・・・一体これ全部、何が起きているんだろう?

何なんだろう?


2014年12月1日月曜日

旅路にて

片道7時間のドライブの旅から帰り、一日空けてテキサスに飛んできました。ちょっとした旅続きです。

私はもともと旅行が好きです。トニー(パーソンズ)と雑談しているときに、運転中に起きた経験―運転している人と、運転することと、車がすべて同じものだった1瞬の経験―について話したら、”運転してるときに目覚めたって人、よくいるね。”なんて言っていましたが、飛行機に乗っているときにも似たような経験がよくあります。旅は瞑想に最適です。

身体は車や飛行機からの振動で疲れを覚え、思考がそれにつれて騒がしくなる瞬間も多々あります。ここで思考を信じると、それが個人化されて思考はストレスになります。旅の供と喧嘩になるのはこの瞬間です(笑)。でもその感覚をキャッチすると―身体の反応がそれ自体で勝手に起きていること、思考もそれにつられて勝手に起きていることが見え、”私”という感覚が崩れます。”私”はもとより、”人”という感覚もこぼれ落ちて、自分が何であるのかわからなくなったりします。

私が輪郭を持った個体から、すべてが起きる空間に変わってしまう瞬間です。

今回、旅の供にヒロさんお勧めのJ.C. Ambercheleの本の中から『The light that I am』を持ってきました。ここしばらく、目覚めた人たちの本やビデオへの興味が失せていて・・・これまで読み聞きしたことを一切忘れたら何が残るんだろう、ということに興味があって、買っても読まないんじゃないかなぁ・・・なんて迷いながら買った本なんですけど、これが・・・面白い!

興味が湧くとか知的に面白いとかではなくて、文の後ろから伝わって来るものが、なんとも言えない。書き手があまりに”それ”の中にあって、あまりに深く”それ”から書かれていて、読んでいて美味しいことこの上ない。私はハーディングには、たまたまどうも惹かれるものがなくて、そういう意味でも買うのを躊躇したのですが、今までのところ、とても味わい深い本です。目覚めることじゃなくて、”それをどう生きるのか”に焦点があるのもすごく響くものがあるし、著者の置かれた特殊な状況も手伝って、目覚めを通して何かを得ようとしていないのが、このなんとも言えない深さを生んでいるように感じます。

いつもながら、ヒロさんの貴重な情報に感謝です。


2014年11月28日金曜日

知っている、わかっている、私は正しい―”私”の幻想が崩れるとき

私はかつて、自分は色々なことを知っている、と思っていました。知識の収集に力を入れていましたし、自分の知識は”正しい”と思っていました。自分の直感力も、相当なもんだ、と思っていました(笑)。

この”私は知っている”、という思いこみと自信のもとに、見かけた人や出会った人を印象で判断したり、他人の考えているであろうことや、その人のするべきことまで、自分の方が本人よりよく知っていると思っていたんですから、怖いものです。

”あの人はこういう性格に違いない”
”あの人は腹の中でこう思ってるに違いない”
”あの人のやっていることは間違ってる、こうすべきだ” 等々・・・

その結果、たくさんの苦しみを生みました。自分の意見を守るためなら、自分が正しい、ということを押し通すためなら、人との諍いも厭わなかったからです。”愛を取るか、自分が正しくあることを選ぶか”(Do you want to be right or do you want love?)、という言い回しを、私の身の回りの人たちはよく使っていましたが、私は当然、正しくあるためなら、愛などかなぐり捨てる、という方でした。

やがてバイロン・ケイティに出会って、自分の中の思い込みを再検証してみる、ということを学びました。バイロン・ケイティは自分の思い込みに対して、4つの問いを投げかけることを提唱します。

1) それは本当ですか。
2) それが絶対に本当だと、あなたに分かるでしょうか。
3) その思考について考えるとき、あなたはどう反応するでしょう。
4)その思いがなければ、あなたは誰でしょうか。
*参照 http://www.thework.com/downloads/little_book/Japanese_LB.pdf
*英語    http://thework.com/thework-4questions.php

この問いは頭で処理して「本当に決まってるじゃん!」と終わることもできますし、問いと共にどこまでも深く沈んで行くこともできます。また「本当ではない」というのが正しい答え、ということでもありません。

最初は自分が間違っているかも、と考えることすら言語道断、という感じがしましたが、4つの問いと、それに続く”ひっくり返し”をやるうちに、やがて反対側の真実を見る目ができて、はっとしました。一度この、はっとする経験をすると、他の思い込みもばらばらと崩れ始め、再検証は楽になりました。

私にとって私の信じていることが絶対に本当のことと思えるように、他の人にはその人の信じていることが絶対の真実である。だから真実は、人の数だけ存在し得る―そんな単純な事実に心が開かれました。

自分がいかに素早く物事すべてを決めつけるか、ということに気づくとともに、自分が間違っていることに気づくたび、それを嬉しくすら感じるようになりました。

そうするとさらに、自分の思考を疑うのは楽になります。そうやって物事のペースを落としてみて見ると、これまで自動的に白黒判断していたことが、実はグレーであったり、果てはピンクだったりすることに気づいて、本当に驚きました。

スローダウンして見ると、自分が物事をいかにちゃんと見ていないか、聞いていないか、ということにどんどん、どんどん気づきます。やがてその、自分の頭の悪さをシンプルな機能的欠陥として自覚するようになり、何かを見て腹がたったりしたときにも、怒りの思考を信じてより怒りだす代わりに、待てよ、と、すぐに同じ物を見直す癖ができました。

そして自分を盲信すること、物事を誰かのせいと信じるのが難しくなりました。正しくあることも大事ではないというか、今はそれより、この検証の機会を逃すまい、という興味が先にきます。相手に腹が立つとき、”自分の中の何を相手に見ているんだろう?”とすぐに問いがこちらに向きます。相手に関しての批評は、自分の中の自分への批評、思い込みでしかないことが、自分の中で真に事実として自覚されたからです。

ちょっとの間の痛み、プライドの傷やエゴの痛みなんか、物事のありのままを知る自由に比べたら屁でもありません。

自分の信念、思い込みを疑ってみることは、私にとっては本当に価値がありました。そしてもちろん、これは今も続いています。


2014年11月26日水曜日

祈り

私は子供の頃からずっと毎晩、寝る前にお祈りをする習慣がありました。特に何かの宗教に属していたわけではなく、むしろ世の中にあまりたくさんの神様がいて、誰が本物かわからず困惑していたので、誰も怒らせないように知ってるだけの神様全部にお祈りせねばならず、なかなか大変なお仕事でした(笑)。

20代半ばで一度この習慣はやめたのですが、その後10年くらいたって瞑想のコミュニティに参加したときに、自然と祈っている自分に気がつきました。自分の環境、先行き、すべてがあまりにわからない状態で、怖くて不安だったから、というのがあったと思います。

子供の頃のお祈りは、”神様との交渉”でした(笑)。「これこれして下さい、その代わり、一生懸命勉強します。」とかいったものです。確か『後ろの百太郎』かなんかで、守護霊と交信するときに自分の側の約束事を提供して実行するのが有効、と読んだので、それを応用したんだと思います。

コミュニティでの祈りは、最初は「神様助けて下さい」というものでした。深い不安の中で、方向性を与えられることを求めていました。恋愛関係のパートナーについてオーダーしたようにも思います(笑)。

やがて祈りの質がどんどん変わっていきました。

最初は助けを求める切実さから、祈りへ傾ける思いが深まっていったのですが、やがて交渉するのでも、求めるのでもなく、「好きなように使って下さい」という祈りに変わって行きました。「私が求める人生ではなく、あなたが私に求める人生を歩めますように」
神様と呼ばれる、白ヒゲのおじいさんが、どこかの雲の上に座っていると思っていたわけではありませんが、コミュニティで”自分を明け渡す”という概念について学んでいた、その影響も大きかったと思います。

そしてやがて、祈りは沈黙になりました。深く、深く祈り続けるうち、言葉を失ってしまいました。適切な言葉が存在しなかったんです。

それからまた、祈ることが起きない時期が長く続きました。

何年もたったある時、バーナデット・ロバーツの自伝で、『contemplationとは神をみつめることである』とお父さんから教わったいうのを読みました。contemplationというのは黙想、などと訳されますが、カソリックの特定の宗派では、祈りをそのように呼ぶようです。自伝の表紙は彼女が子供の時からお気に入りだった絵画で、カソリックの僧が窓辺にたたずみ、どこかを見ています(ちなみにその絵画は戦時中に失われたもので、彼女の家にあったのは絵画の写真だったそうです。)

ただ、見つめること。

神と呼んでもエネルギーと呼んでもなんでもいいけれど、すべてが存在することを可能にしているものを、ただ見つめること。

本当にそれを見つめる時、それから何かを得ようとすること、それに何かを求めることは不可能な気がします。真の沈黙だけが、それに似合うから―ゆいいつそれと同調できるように思うからです。それにまつわるどんな言葉も努力も、うるさい騒音に感じられます。

そして同時に、その静けさの中では、どんな嵐も可能な気がします。身体に走る痛みも、周囲に起きる出来事と、それに関連してわきあがる思考も、感情も、その根底にある静けさと完全に共にあります。

世の中で一番嫌い、大嫌い、と思っていた出来事も、ただそれ自体の寿命を生きて、消えて行きます。嵐と、とてつもない静けさは、同じ一つのものであるようです。

*バーナデットの自伝は自費出版のみで、彼女のサイトから直接購入となります。リンクはこちら


2014年11月23日日曜日

当たり前な奇跡

私が住んでいるのは、アメリカ南部のあまり大きくない街ですが、それでも人種がものすごく多様です。

ショッピングモールなどで立ち止まっていると、目の前をめちゃくちゃ背の高い人、ものすごく低い人、白人、黒人、ヒスパニック、アジア人、各種様々なミックスと、バラエティに富んだ人々が通過していきます。大人、子供、ティーン、老人、男性、女性、どっちともわからない人・・・膨らし粉を飲んだように太った人もいれば、骨と皮ばかりに痩せている人もいます。ファッションも誰一人として同じではありません。真冬にタンクトップを着ている人もいれば、厚手のコートに身を包んでいる人もいる、というのがアメリカです。

誰一人として同じ人はいません。

昔は目につく人すべてに、”あの人太りすぎ。どうやったらあんなに太れるの?”とか、”わー、肌が奇麗”とか、常に批評・批判が自動的に湧いて頭が忙しかったのが、今は誰一人として同じでないことの神秘と、そのすごさに静かに圧倒されながら立っていたりします。

昔はこういう美に気づくと、恍惚感に襲われ、他の何もが手につかないような気がすることがよくあって、それが起きたり消えたりした後の、日常の感覚との落差に戸惑ったりしたのですが、次第にそういう経験に慣れ、特別感も、落差もあまり感じません。ただ当たり前の奇跡に、静かに打たれながら立っています。

女性、男性、といった分類も頭から剥がれ落ち、自分が何を見ているのかすら、わからないような気がします。たくさんの、不思議なものが目の前をめまぐるしく通過していきます。

当たり前の奇跡が、目の前にあふれています。


2014年11月21日金曜日

私の輪郭

前回、私が悟りに関して持っていた、”外にある場所”としてのイメージについてお話ししました。今日は”内側”に抱いていたイメージについてです。

ある時、私の中には、”私”の心理的なイメージ(優しい、意地悪、頭がいい、頭が悪い等々)とともに、身体の輪郭のイメージがあるのに気づきました。例えば足を伸ばした状態で座っていて目を閉じたときには、目の前に自分の足が伸びているイメージが心象風景としてありましたし、いつ目を閉じても、鏡で見た自分の姿のイメージがそこには保たれ、自分の外形、殻とでも呼ぶべきものの感覚が、常にはっきりと感じられるものとしてありました。

この”私”の輪郭のイメージは、自分とそうでないものの境界を作り、個人としての基本的な存在感を支えていました。これはスピリチュアリティとは関係なく持っていたものです。

これに加え、私はオカルト漫画の影響で、”オーラ”という概念を早くに学びました。(多分大抵の方は聞いたことがあると思いますが、オーラとは一般に、人体の周囲に発散されているエネルギー、気の場、電磁場、波動体などなどと説明されています。)そのイメージはこんなものです。

その人の健康状態や心理状態によって色や幅が違う、などといわれます。そしてスピリチュアルな世界では、神、聖人、目覚めた人、マスター達は皆、金色の後光を放っているものとして描かれています。こういう話をたくさん聞いたり、そのバックアップとなるイラストをたくさん見たりすると、マインドにどんなイメージが作られるか・・・簡単に想像つきますよね?


これが私版の、悟りを自分の内に手に入れ、それが外側に溢れ出ている、というイメージですが、見てのとおり、目新しいものではありません。あちこちで見た受け売りのイメージが、自分の中にしっかりと抱え込まれていただけです。そしてこのイメージこそ、”私がなるべき姿”だと信じていました。

私は芸能関係の仕事に縁があり、そこでも存在感=オーラ、というものがとても大切なこととして当たり前に、まことしやかに語られていましたから、ますます”存在感”の拡大を大切なことと信じ込んでいきました。そして自分のオーラの色や幅、存在感の大きさなどといった愚かなことを気にして、自意識を強めていきました。

”私は深い気づきを得たけど、それは外に現れているかしら?人は気づいているかしら?” 私は自分のオーラを雰囲気的に知覚し、それを強めたり、広げたりできているようにすら感じていました。
  ―(_ _;)やれやれやれやれ。

オーラが実際のものかどうか、というのとは関係ありません。ただ、自分の中に深く根付いていた無用なイメージに、また一つ気づいた、というだけです。悟りに関して抱いていた幻想と、”私”の存在について、確かめてみる機会でした。

リラックスした状態で目を閉じると、周囲や身体に起きている、様々なことに気づきます。音、匂い、身体に起きる感覚―そしてこの気づきは、次から次へと自由に飛び回って、一カ所にあまり長くじっとしていることがありません。

そんな中でやんわりと身体に注意を払って見ると、様々な感覚が湧くのに気づきます。それは胃の中のチリチリするような感覚だったり、肩の痛みだったり、顎の緊張だったり、頭の右側の圧迫感だったり、手足のしびれだったりします。

その一つにさらに優しく注意を向けると、大抵の場合、その感覚は素早く消えてしまいます。とどまっていても、どこからその感覚が始まって、どこで終わっているのか、その輪郭を特定することができないことがわかります。さらに、”肩”に痛みがあると思っていたのに、その”肩”すらも特定できないことに気がつきます。

私が持っていたイメージは”イメージ”であり、身体の外形、枠、殻を確認できないことに気づきます。そこにあるのは移ろいゆく感覚だけです。

実験の結果は、輪郭というイメージの自然な消滅でしたが、それによって、自分が常に周囲と一体であると感じているわけではなく、ただ、無用な架空の枠が一つ消えただけ、という感じです。ものすごい拡大を感じる、というよりは、無用な荷物を下ろした楽さ、という感じです。


2014年11月18日火曜日

真理の場所

マインドは見聞きしたものを、時間と空間の中で特定しようとします。私は自分の中で、真理というのをどこかにある、特定のスポットのようにイメージしていたのに気がつきました。


これは無意識に持っていたイメージです。”真理に目覚め、そこに定着する”なんていう言葉を聞くことによって、ある特定のスポットが空間にあり、それを見つけ、そこへたどり着き、その上に定着する、というような、こんなイメージ(↓)がマインドに形成されていたわけです。

実際にその上に座っているのかどうかというのは別にして(笑)、定着する、という概念からは、定着してない時という幻想が生まれます。このイメージとともに、スポットからこぼれ落ちた(=目覚めたと思たのに、あの感覚がなくなっちゃったわ)、片足だけ引っかかってる(=かすかにわかるような気がするけど・・・)、指先でかすかに触っているような(=そこにあるのはわかってるけど)、といったような、諸々の目覚めに関する架空の体験が生み出されました。

言うまでもなく最初の誤りは、真理を”どこかにあるもの”と捉え、果てはその場所にたどり着いた(=真理を見つけた)、と思うことなんですが・・・

マインドは自分の立ち位置をはっきりさせるのを好みます。時間と空間の中での位置づけを行うと同時に、意味合いも定義しようとします。
「自分なんて存在しない」
「すべては一つだ」
あるいは「マインドなんて存在しない」などといったような洞察、気づきが起きると、それを”真理の定義”として握っておこうとします。この二つが合わさると、真理に辿りついて定着するというのは、こんなイメージですか(↓)

私はこれを、何度も何度も繰り返しました。そのたび運良く、誰かに、あるいは何かの出来事にうまいこと頭を叩かれぺしゃんこになって、握っていたものを手放す結果になりました。本当にありがたいことです。そしてこの作業は今も続いています。

どこか架空の場所、あるいは状態にとどまろうとすること、一つの気づきを普遍のものとして持ち歩くこと、どちらも不可能なことなので、無意味なもがきを生みます。限定され、箱に入れられた真実は、すぐに湿気を帯びて古くカビ臭くなります。でも握れるものがあるほうが、嘘くさくても、つかの間は安心な気がしました。

すべてはわかりたい、という”私”の中に深く根付いた、どうしようもない衝動からきています。わかれば、それを管理、コントロールできると思うからです。そしてコントロールできれば・・・結局、”安心したい”という願望に返って行きます。

あきらめて手放すと、すべてがただ流れて行きます。なにも捕まえることができないのは不安ですが、不安感もふと目を向ける間に流れていきます。何もかもがどうしようもなく変化し続けています。



2014年11月12日水曜日

あたりまえへの帰還

見つめれば見つめるほど、私に見えて来るのは超常現象も神秘的な何かでもなく、ものすごく自然で、あたりまえな物事のあり方です。

”すべてのことが、それ自体の完璧なタイミングで起きている”

例えば、私たちの身体は、赤児の身体から幼児の体、大人の体へと、自体のペースで育っていきます。そこに私たちの意志などまったく関係ありません。常に、それ自体に備わっている知性に基づいて機能しています。

呼吸、心臓の脈拍、消化、爪や髪の毛の成長、細胞の生まれ変わり、ゲップからお腹がきゅーっと鳴ることまで。

行動も思考も同じです。すべてを自分の意志で決め、行っていると教わり、そう信じてきましたが、行動や思考は”起きて”、自分はそれにその後気づいているに過ぎません。

すべてが、一秒たりとも早めに起きることはありません。一秒たりとも遅すぎることもありません。

この当たり前のことに気づいて、言葉にできない感慨に打たれてはまた忘れ、同じことを再発見します。その事実をさらに深く体感します。

理解も、気づきも、それ自体のタイミングで起こります。例外はありません。私の努力や希望とは、一切関係ありません。努力も希望も、それ自体のタイミングで起きています。努力しないようにしようとしても、希望を持たないようにしようとしても、するときはする、持つ時はもう持っています。

運命論や、思考のレベルで物事は起こるべくして起こる、と定義するのとは違い、投げやりな気持ちは一切起きません。大いなる自然の動きに対する畏敬の念に包まれ、力がすべて抜けるような気がします。起きることに対する抵抗感が薄れ、静かな信頼とともに、次の行動に流れて行きます。

そして”私”が、”これを絶対忘れないようにしよう!”、と言います。それを新しい信念体系にしようとします。その時には、すでに気づきは役目を終え、死んだものとなっている。どんなに素晴らしくても、体験にしがみつき、それを絶対化して生きることはできません。



2014年11月9日日曜日

正しい問い

『正しい問いを持たなくてはならない』と、アジャシャンティ、U.G.クリシュナムルティはじめ、多くの人が言うのを聞きました。

ある人は、それはbig questionでなくてはならない、と言いました。例えば、
”神とは何か”
”生きるとはどういうことか”
といったような問いです。当然試してみました。最初こそ、この”大きな問い”に対する盛り上がりを感じたものの、注意はすぐにそれていってしまいました。

また別のところで、
”私は誰か”
という問いこそ、究極の問いなのだ、というのを聞きました。さっそくこれも試しましたが、問いは次から次へと思考を生むだけで、やはりなんの役にも立ちませんでした。

”考えること”が意識の焦点のほとんどを占めていた間は、正直、どんな質問もマインドの表面にとどまるだけで、なんの意味もなかったように思います。

初めて自分の中で、本当の”問いかけ”というものが起きたのは、アジャシャンティの『あなたの世界の終わり』を読んだ時だったと思います。
瞑想だなんだ、あれこれやってきたけれど、一体なんのためにやってきたんだろう?今、なんのためにやっているんだろう?

本当に自分の深いところから沸き上がるものがあるからやっているんだろうか?それとも、そうしたら何かいいことがあるらしいから、何かいい思いができるかも知れないから、人にそう聞いたからやっているんだろうか。

この問いは人からの”借り物”ではなく、自分にとって本物だったので、最初は少々努力を要しましたが、その問いとともにじっと座ること、深く沈んで行くことができました。初めて黙想することを学びました。

その後、
”私、私、って思ってるけど、一体私ってなんなんだろう?”(誰、ではなくて”何か?”です。)
”私が本当に欲しいのは何だろう?”

というような問いをはじめ、”あの人はこうするべきじゃない、と私は思ってるけど、本当だろうか?”といった具合に、一つ一つの思い込みや、自分がこれまで現実と思って来たこと、ただ自動的に信じてきたことを問い直す、ということがより頻繁に起きるようになりました。

こういった問い、黙想は、よく”思考を超えた経験”を起こしました。頭の中で答えを得るのではなく、むしろ問いとともに、問いを含めた思考が消えて行き、ただ在る状態を体感することで、思考がただのエネルギーであること、それまで信じてきた事柄が、実体のないものだったことが自ずとわかる、という感じでした。

そして今、繰り返し検証している、というか、眺めてみているのは、
”私は何を変えようとしているのだろう?”ということです。

あれやこれやを探し、試すその根底には、”今あることの何かがおかしい”とか、”何かが欠けている”、”これはこうあるべきじゃない”、という感覚があるのが見えます。世の中の、私の、何かが違う、間違っている、という思いが根底にあります。

本当に?これはこれではいけないの?今起きていることは、起きているままではいけないの?

子供の頃から、”現状に満足したら人間は終わりなのよ。それ以上の成長がなくなるの。”などと言われて育ちました。何か足りないものを見つけ、どうやったら目の前のものをよくできるか、ということを常に考えることが、人間の向上の道なのだ、と教わりました(当然これは、人間は向上しなくてはいけない、という考えを前提にしています)。

人間は破壊に向かう道を進んでいるから、精神を高めないといけない、とも教わりました。世の中には、目に見えないもっと大きなものがある、とも聞きました。

本当にそうだろうか?

そこには成長すべき誰もいない、向上というのは概念だ、等々というのは置いといて、ただまっすぐ、本当なのか、眺めています。

じっと見つめると、問いが沈黙の中に消えて行きます。身体がゆるむのに気がつきます。深呼吸が自然に起きるのに気づきます。
そしてまた思考がわき、思考がわくのはいけないことだ、という思考がわき、本当にそうかな?という問いがわきます。

答えがないままに、心身がゆるみ続け、私のものではない、深い沈黙だけがそこに在るすべてになります。

2014年11月7日金曜日

悟り製造ライン

U.G.クリシュナムルティがビデオの中で、

「目覚め方なんて千差万別なんだ。だから誰かがどうやって目覚めたか必死に聞いて、その人の真似をしようったってそうはいかない。組み立てラインで悟りを製造する、なんてわけにはいかないんだ。」

というのを聞いて、ああ、本当にそうだなぁ、と思いました。

子供の頃から偉人の伝記が大好きで、たくさん読んでいましたし、大人になってからも事業に成功した人の自伝や伝記をよく読みました。伝記という”実際に起きた(とされる)物語”を純粋に楽しんでいた部分もありますし、有名な人の素顔を知る、というゴシップ的な楽しみもありましたが、”成功の秘訣を学んで、それを真似して生かそう”、というのが一番の動機だったと思います。

その発想自体も自分のものなどではなく、子供の頃に周囲の大人から、「偉い人から学んで、偉い人のようにならないとダメだよ」などと言われた、その刷り込みの結果だったりするわけですが、私の場合、”どうすればいいかわからないから、人に答えを探す”、というのが大きかったと思います。

自分のやっていることがまったくわかってないから、とことん深い迷宮の中にいるから、誰かに簡単に答えを教えて欲しい。

探していたのはこんなもの。


2014年11月5日水曜日

心象風景が消えるとき

バーナデット・ロバーツの『無我の体験』を日本語訳で楽しいんでいるところです。

心象風景―心に浮かぶイメージ、音、物語―といったものが消えるとき、そこに残るのは何か。バーナデットの旅の過程を読む中で、今私が一番内観を誘われている問いです。

”心象風景を一切合財失ったとき、そこからくるエネルギーに自分がどれだけ頼っていたかに気がついた”、と彼女は言います。

私は自分の頭の中で、終止独り言が続いているのに気がつきます。それは時には記憶の画像であったり、想像の物語だったり、自分や人の行動、発言に関する意見、憶測、批判、叱咤激励だったりします。

そして私は日常的に、この頭の中の声を使って、自分で自分を駆り立てているのに気がつきます。それが自分の行動の原動力、創造力の源だとすら思っているのに気がつきます。頭の声を信じることで自家発電される、ある種の”盛り上がり”とか”焦燥感”をなくしては、何もできなくなってしまうのではないか、とまで思ったりします。

一方で、頭の中のどんな声や意見を信じることなく、物語に巻き込まれることなく眺めていると、面白いことがおきます。

まず、ふと、考えていることに気がついて、頭の声と”それを聞いているもの”の間に亀裂が起き、ピタッと物語がやみます(大抵の場合、物語は消えます)。

『だるまさんが転んだ』現象、とでもいいましょうか。後ろから聞こえる「だ〜る〜ま〜さんが〜こ〜ろ〜んだ〜」という声を聞きながら前に進んでいて、あるとき急にピタっと止まり、振り返る。すると後ろの声もやみ、ついてきていた人たちは静止する。

そこでまた前に向き直り歩き始めれば、新たな物語が続行しますが、振り返ったままさらに”眺め続ける”と、頭の中にちょっとした騒ぎがおきます。頭の声が次から次へと別のトピックを投げてくるんです。もしこの話題に食らいついてこないなら、このゴシップはどうだ、あの映画の思い出はどうだ、という感じで、どれにも乗らないと、果てはまったく関係ない歌まで頭に流れてきます(笑)。

どれにも参加せず、さらに静観していると、”何も起きてない状態”になります。今の私の限られた経験と能力で描写すると・・・目が開いているにも関わらず、何かを見ている感覚もなく、なんとも変な感じです。麻痺しているのと違うように思いますが、何もはっきりしたことは言えません。

そして”それに耐えられない”、とでも言わんばかりに、わさわさした感覚が身体の中に湧きます。なんでもいいからこの静寂を破ろうとするエネルギー、といった感じです。

心象風景こそ、”私”そのもので、”私”が継続するには、常にエネルギーが注がれていなくてはならないこと、また”私”は自分が消滅することに、徹底的にあらがうのだ、ということが見えます。その抵抗ぶりとバラエティに富んだ技は結構笑えます。

2014年11月3日月曜日

瞑想という快適な時間

昨年、瞑想の教師養成コースで集中的な瞑想を行った、ということについては何度か書きましたが、そのとき私が経験した最大のチャレンジの一つは、”瞑想から起きること”でした。

私が行っている瞑想は目を閉じていても、目を開けていても行うことができます。両方が大切であることは、常に言われることですが、通常の生活を離れての集中瞑想、という稀な機会では、目を閉じての瞑想の重要性がはじめは強調されます。

やがてある地点から、目を開けて食事をしている、散歩をしている、人と話している、掃除しているときに瞑想することの重要性がもっと強調されるようになり、それはそのまま瞑想の指導をすることへ延長されます。

6ヶ月というのは長いようで短い期間です。この期間に学ぶのは、一なるものについて少なくともはっきりとした感覚を得ること、習慣的な、反応的な生き方と、自然な状態に沿った生き方の違いをはっきり味わうこと。さらに、トレーニング後の通常の生活で、自然な状態への認識が広がって行くよう、瞑想の習慣を確立すること、です。瞑想の指導の仕方、というのは、ある意味二の次です。

多くの人は、目を閉じて日に10時間以上も瞑想し続ける、ということに難しさを感じます。それまでの、常に何かをして気を紛らわす習慣を止めるのは、大変なチャレンジなのです。人と話したい、電話したい、パソコンに向かいたい、本を読みたい、美味しいお茶を入れたい・・・内観が起こす嵐、静寂、または退屈を避けるためならなんでもします。

私にとっては、目を閉じて外界を遮断し、次第に精妙になっていく様々な意識のレベルを模索するのは、これ以上ない喜びでした。ですから退屈や苦痛を感じるどころか、ある時点を過ぎたときには、このまま永遠に横になって瞑想を続けていたい、と願うくらいでした。自分は僧院にいて、一生祈って暮らしていく、というような錯覚にどこかで陥ってしまったほどです。

過去のマスター達が語ったように、存在への深い理解が確立され、自然と瞑想が止むまで突き詰めたい、というスピリチュアル・ロマンスへの執着もありました。

私の師カーリー、そしてバガヴァティは当然、それを見逃しませんでした。そして私を含む数名が、目を閉じての瞑想で学ぶべきことは終了したとして、目を開けての瞑想に重きを置くべく、次のプログラムに移されました。

瞑想という快適な寝床に安住していた私にとって、これは非常な苦痛でした。

私の実践している瞑想法は、条件づけられた思考をゆるめるのにとても効果的だと思いますが、どんなものであれ、それが逃げの場所になってしまえば意味ありません。瞑想の時間が日常より優れた特別な時間、とかになってしまえば、生活や思考を分断するだけで、存在の一なる本質を知ることとは真逆に走ることになります。


2014年11月2日日曜日

”私”の本音、と感謝

この週末、バーナデット・ロバーツが最近書いた研究論文を読んで、”自己とは何か”という課題に関する彼女の表現の明晰さ、言葉の向こうから伝わってくる、真実への情熱に、深い感謝を覚えていました。

私たちの中に備わっている、自分が存在している、という感覚。
それがなくなったとき、その後に残るものは何か。

彼女の明晰な描写とともに、その問いかけに深く沈んだ瞬間、
そんなことしたら私がいなくなっちゃうじゃんか!
という切迫感を伴った声が私の中に湧いて、大笑いしてしまいました。

ほらほら、それが本音よね。自己がなくなることなんて、自己が欲しがるわけないんだから(笑)。

”私”が欲しいのは、”私を持っていない私”というアイデンティティであって、本当に自分がいなくなるなんてとんでもない、というわけです。

さらに今日、中野真作さんのブログを読んで、とても感銘を受けました。
リンクはこちらです。

この記事に関する情報に限らず、常に貴重な情報を発信し続けて下さるヒロさんに、感謝の念がつきません。

またヒロさん始め、空愛ジョイさん、他トラックバックできなかったのですが、このつたないブログを紹介下さった皆様に、この場を借りて心から感謝申し上げます。

バーナデットの記事はこちら


2014年10月30日木曜日

スピリチュアリティという幻想

私たちの世の中は相反するアイデア、概念で構築されていて、私たちは二極の間で常に揺れている、葛藤を繰り返している ―というようなことは、スピリチュアリティに興味のある方なら、大抵はどこかで聞いたことがあると思います。

黒があるから白がある、
低次元があるから高次元がある、
良いとされることがあるから悪いとされることがある、
好きがあるから嫌いがある、

といったようなことです。何かが高いと決められることによって、他のものが低い、と定義される。

ちょっと前ですが、これがスピリチュアリティそのものに当てはまる、ということに今更気づいて驚きました。

私が最初にスピリチュアリティと呼ばれるものに足を突っ込んだとき、”世の中にはスピリチュアルな人とそうでない人がいて、スピリチュアルに目覚めていない人のエネルギーは周波数が低いことが多く、影響を受けないようにしなくてはならない”、といった考えがあちこちで聞かれました。

そして低次元のエネルギーから自分を守るテクニックとか、果てはシールまで販売している人たちがいて、私もせっせとあれこれ習ったり、買ったりしたものです(^^;)

その考えは卒業したかのように思っていましたが、意外にも洗脳は深かったということに気づいて驚きました。

ちなみに気づいたきっかけは、このトレッドミルの上から見たジムの光景です。


私の通うジムにはテレビモニターが何台も据え付けられ、爆音でロックやポップミュージックがかかっています。

私はトレッドミルを使用するとき、このスピリチュアルでない環境を遮断し、高尚なものに注意を向け続けるために、非二次元教師のビデオやオーディオを見たり聞いたりしている自分、というものに気づいて、”あれ?”と思いました。

”すべては一つのものからできている”、”そこにあるのはたった一つのものでしかない”、というメッセージを聞きながら、私はスピリチュアルなものと、そうでなもの、といった区別をつけている。

おやおや・・・

これはスピリチュアルで、

これは違う、と。

スピリチュアルってそもそも何?そんなもの存在するの?

スピリチュアルというのは、概念以外の何物でもないんだ、と今更再認識しました。

2014年10月28日火曜日

マインドは本当のことと嘘を見分けられない

マインドは外界から刺激を受けると、”前にこんなことあったよね!”、と過去の記憶から関連するデータを素早く取り出します。そして、”あの時こうだったから、これはきっとこういうことだよ”、と記憶に照らして、起きたことに意味や解釈を与えます。それをもとに、次に取るべき行動について案を出してきたりもします。

問題は、その過去の記憶はあくまで主観的なもので、正しいとは限らない、今起きていることに必ずしも関連しているとは言えない、ということです。つまり、マインドには、本当のこととそうではないことの区別がつかないのです。

にも関わらずマインドは、”絶対こうだよ!”とか、”そうに決まってる、だっていつもそうだもん”、などと言います。そして私たちはそうした”頭の中の声”を、正しいものと思い込んでしまいます―少なくとも、私はそうでした。

デービッド・ホーキンズは、こうしたマインドの性質を明確に説明しました。そして通常の私たちの意識が、いかにそうした”頭の中の物語の詳細”に囚われているか、を指摘し、そこからズームアウトしていくとどうなるか、を素晴らしい明晰さで描写します。

小さな物語の主人公としての”私”ではなく、その”私”を見つめているもの、そして”私”という幻影を可能にしているものとしての私。一歩一歩、後ろに引いて、一点凝視の状態を離れ、全体像へ、意識を導いていきます。

”真実というのは、ある事柄を囲む諸々の条件、状況がある中においてのみ成立することであり、Aという事柄において真実であったことを、まったく違う条件で起きたBという事柄に当てはめることはできない。条件、状況を捨てて、真実を普遍化することはできない。”

あの人っていつもこうなんだから!―という思考が走るとき、”いつもって?”と、私は自分に突っ込みます。いつもっていつ?いつもって本当?そもそも、”いつも”ってなに?

関連記事:瞑想を通して起こりえること


2014年10月26日日曜日

愛と神秘:デービッド・ホーキンズ

デービッド・ホーキンズは、私が一時期大はまりした人の一人です。ただし、宇宙科学者のホーキング博士ではありません(ホーキング博士もすごく尊敬していますが)。”Power vs. Force”(パワーか、フォースか)の著者、デービッド・R・ホーキンズです。私は敬愛を込めて、ホーキンズ先生と呼んでいます。

ホーキンズ先生は2012年に亡くなりましたが、私は2009年にセミナーで一度だけ会うことができました。ちっちゃくて、か細くて、深い声が印象深い、とてもお茶目なおじいさんでした。私も主人も、会場を満たしたホーキンズ先生の愛の空気に包まれてぼーっとなり、講演の内容はあまり記憶にないほどです。

彼の提唱するキネジオロジーを使って所有していた本の意識の高さをはかり、トニー・パーソンズの本を再発見した結果、ホーキンズ先生の講演記録を聞けなくなってしまった、というのはなんともおかしな、馬鹿げた話しなんですけれど・・・。

ホーキンズ先生の話は神秘体験に満ち満ちていて、スピリチュアリティのあらゆる愛と夢の幻想に満ちています。高次元の存在、天使、過去生、体外離脱、等々。いかに自分を高めて行くか、エゴを昇華し、神に自分を捧げるか―話しを聞いていると、献身への情熱に駆り立てられます。同時に、私の中にはえもいわれぬ不安が湧いてもいました。

この不安感というか違和感はとても微妙なもので、自分でもはっきりと認識できずにいたのですが、トニー・パーソンズの、”神も天使もいない、あるのはここにあるもの、それだけだ”というメッセージを読んで深い安堵感に包まれ、それまで密かに感じていた不安や違和感がなんだったのか、はっきりしました。

きらびやかな愛と神秘の体験を聞いていると、同じ経験を持っていない自分は、高次の愛に足りていない、という不安感が起きるんです。そこにはまだまだすべき体験、修行、もろもろの長い道のりがあり、途中には避けるべき暗い低次元の存在の誘惑や、チャレンジが待ち受けている、という印象を受けてしまうのです。

そういった意味で横道に逸れるというか、誤解しやすい要素は多いのですが、私はホーキンズ先生の功績は素晴らしいものがあると思っています。

最近、ホーキンズ先生の『I (私)』という本が増刷されたので、この機会に少し、ホーキンズ先生から学んだことについてお話したいと思っています。

ちなみにこの本は私の古いお友達、立花ありみさんが訳しています。立花さんはなんとも心のきれいな人で、翻訳もその人格がそのまま出ているというか・・・まっすぐな訳は、アカデミックなこの本にぴったりだと思います。(よくこれだけの本を訳したなぁ、と尊敬します。)


2014年10月21日火曜日

開いた分しか受け入れられない

若い頃、「はみだしっこ」という漫画に出会い、大はまりしました。それまで親にかわいがられよう、人に好かれようと直球で努力してたのに、それがどうにもうまくいかなくなっていた時期でした。それでまっすぐであるより、漫画の主人公達みたいな、ちょっと斜に構えた姿勢が格好いいと思うようになりました。素直にかわいくあろうとするのがうまくいかないなら、こっちにいってやる!―てな感じです。

さらに大学時代、つかこうへいにはまったりして、余計に一癖あるのが格好いいと思うようになりました。なんでも素直に受け入れるのではなく、いちいちいちゃもんをつけるのが格好いい、という姿勢です。

内心は不安と恐怖で一杯だったのに、虚栄を張って、ひねくれの美学を実践すべく、できる限りのところまで意地を張りました。時折、すごく心のきれいな人を見て、自分が心底いやになる、ということもありました。あんな風にあれたらなぁ、と深い憧れを感じたのも覚えています。

さて、虚栄心が深いと、受け入れ窓口は極端に小さくなります。いい、と思うものを認められないからです。ある意味、認めたら負けだからです。そしてどんどん、自分を檻に閉じ込める結果となります。前に言ったことを覆すわけにいかないから、メンツが潰れるから、といった愚かしい理由で、どんどんどんどん、色んなものを拒絶していくようになります。そして私は息ができなくなる寸前までいきました。

スピリチュアリティなるものに出会った時、今度は反対の極にまっしぐらに走りました。自分を開くのが偉い、見栄をはるのはいけない、純粋にならなくてはいけない、等々という新しいスタンダードに見合うためです。

一時は自分が良い人間になっていくような気がしたのですが、気がつくと、これもただの拒絶の繰り返しでした。エゴはいけない、ネガティブな思考や態度はいけない、こだわってはいけない、執着してはいけない・・・当然、周囲の人や物も、常にこういった物差しで測っている。窓口は狭くなるばかり、息苦しさは増すばかり。

それでも幸運なことに、様々な人や物に出会い、”ゆるみ”というものが起きていきました。

”ゆるみ”というのは、文字通り、自分の中で固く信じてきたことがゆるむことです。”ゆるみ”が起きると、何層もの無意識の条件付けによって縛られていたエネルギーが、だんだん解放されるような感じがします。拒否感が減ると、”平気なもの”が増えます。これはいけない、これは嫌い、と決めつけ、繰り返し自分に教え込んできたことが、本来の、”すべて平気状態”に帰っていくからです。

すべて平気というのは、すべて好きになる、というのとは違います。嫌いでいることにも、好きでいることにも、感情的なこだわりが湧かない、あるいは継続しない、とでもいいましょうか。

自分に合わない意見も、嫌いな話しも、ひとまず聞けます。それでも嫌いかもしれないけれど、それを問題視することも、逆に自分を正しいと思うこともなんとなくなくなっています。どんな反応、意見、感情、感覚も、ゆるむほどに個人的な色を失っていきます。するとさらに、すべての意見、感情、感覚が一定ではなく、刻々と変わっていることに気づきます。

すべての条件付け、良い悪い、こうあるべき、といったルールや固定的な考えは、この社会で上手に生きて行けるためのものですが、実際のところはあまりうまく機能していないように思います。

真に解放されるには、個人の思考からのみでなく、文化のインプットから、人類の思考の球体から抜け出さなくてはならない、と言ったのはU.G.クリシュナムルティだけではありませんが、私は彼のことをよく思い出します。


2014年10月20日月曜日

めんどうくさい

最近、急に色々面倒くさくなってきました。

去年教師養成コースを卒業してから、いかに”唯一なるもの”に意識を置き続けるか、見えた、と思ったものは本当なのか、瞬間瞬間見つめてみること、確認すること、が興味の対象のすべてでした。逆にそのせいで疑いが湧いたり、わかっていると思ったものがわからなくなって、混乱やパニックを繰り返したりもしました。

私の心はいつも真理に向かっているだろうか?それとも真理という名前の元に、それを通して何か他のものを欲しがっているのだろうか?自分にはわかってる、という勘違いの罠にはまってはいないか?

本当に見通せるまで、とことん見つめるのだ、自分のすべてを捧げるのだ、という思いがありました。このブログを書くにも、その時々で自分に見えている最上ものを、できるだけ正直に書いてみよう、という思いがありました。できるなら、純粋なものだけをシェアしたい。

突然、急速に、面倒臭くなって来ました。

何が面倒かというと、この”すべてを見張っている感覚”が面倒でたまらないのです。自分と目の前に置きていることの間に、余計な確認・認証ステップが入っているようで、それが面倒くさくて、どうでもよくなってきました。

最上の真理を見つめているか?あの非二次元の人が言ってること、この教師が言ってることは、私の現実観とあっているだろうか?―ある意味、知ったことじゃない、というか、気にする暇があったら、目の前のことに飛び込みたい。実際に取りかかるほうが忙しくて、それどころじゃない。それは掃除をするとか、人と話すとか、何一つ特別なことではないんですけど・・・それこそ、時には駐車場でただ陽にあたって立ってるだけなのに、立っているのと陽にあたってるのが忙しく、”私と私の真理”を気にしてられない、という感じです。

書くなら書く、ということだけに向かいたい衝動があって、純粋かどうかなんてうっとうしい自己評価をいちいちしていられない。

そもそも、スピリチュアリティが特別、なんて思ってたのが現実離れしているし。”私など存在しない”という事実が自分の唯一の現実になってるか、なんて確認できるわけないし。

この一年、自分の現実観が刻々と変わって、数ヶ月前に自分の書いた物を読み返すと、自分で書いたと思えない、ということがよくありました。

突然ブログの語調が変わるやもしれませんが、それでも読んで下さる方には、深くお礼申し上げます。


2014年10月17日金曜日

アマゾンのレビューがすごい

時折、私の好きな本が翻訳されているかどうか、アマゾンで調べてみたりします。

ついでにレビューを読んだりするのですが・・・下手な悟りに関する本を読むより、よっぽどすごい、と思うレビューを見つけることが多々あります。レビュー投稿者の素性やブログを探したくなってしまうくらいです(実際に探そうとしたこともあります^^)。

投稿者の深い知識や理解が表れているレビューもありますし、何も知らずに自然に目覚めてしまった、という感じがそのまま出ているレビューを見たこともあります。自分に何が起きたのかわからなくて、手がかりを探して本を読んでみたけど、理屈にはついていけない。もう起きているがままで仕方ないかな、みたいな。

感動しました。
アマゾン・レビュー、恐るべし。


2014年10月16日木曜日

イシャヤのアセンション教師への過程

インディアナのコースから帰ってきました。参加者は新旧生徒、教師含めて13名、とても良いコースでした。

私は12年前、イシャヤのアセンションの教師養成コースに参加する予定でいました。しかし当時の団体が解散してしまい、それは叶わぬこととなりました。このままではアメリカまで来たことの意味がなくなる、それまで色々努力してきたことが無駄になる・・・なんとか自分のやってきたことの意義を見いだそうとして、教師養成コースを自主的に開催することにしました。

私の師カーリーがサポートしてくれ、他に数人が集まり、小さなコースを行いました。

イシャヤのアセンション教師養成コースには、大きく分けて二つの重要なパートがあります。一つは集中的なアセンションで、最低4ヶ月は目を閉じて、一日10時間以上アセンションをします。そしてその後、実際にコースを指導するための準備を行います。

私の小さなコースは4ヶ月後、集中的なアセンションを終えたところで終了となりました。カーリーの判断で、誰一人教師となるための次の過程に進むことはありませんでした。

当時の私は、自分がなにをやっているのか、まったくわかっていませんでした。一なるもの、アセンションではアセンダントと呼んだりしますが、それが何かも意識の上ではわかっていませんでした。あくまで、”私”という観点から、これまで色々犠牲にして頑張ってきたのだから、何かの証を手に入れたい、報酬が欲しい、と思っていただけでした。

頭の片隅では、”今教師になって、一体何を教えるというのだろう?ただアセンションのテクニックを教えればいいというものではない”、とわかっていたので、ならなくてほっとしたのですが、同時に癇癪も起きました。”私”に何もくれないアセンションに、とても腹がたちました。

それから10年以上たって、もう教師になるつもりなどなかったときに、教師になりました(^^;)。おかしなもんです。

教師養成コースの中で一番印象に残っているのは、カーリーの、

"You can't teach what they already are."という言葉です。

”みなすでに命そのものなのだから、教えられることなど何もない。生命そのものに、どうやって生命であることを教えるというのか?”これを聞いたときは水に打たれたような気がしました。

私たちはたまたま、自分が生命そのものであるという事実を繰り返し思い出すことを知り、習慣としている。それを望む人と分かち合うことができる、それだけです。

見知らぬ人々の前に座って話しをするとき、緊張も不安も湧きます。ただその時、そこに座っている”私”のみならず、目の前に座っている”人”などおらず、そこにあるのは命だけだ、と思い出せることは、本当にありがたいことです。

2014年10月9日木曜日

On the road

イシャヤのアセンションコースのため、インディアナ州まで行ってきます。
しばし、お休みさせて頂きます。






   

2014年10月8日水曜日

守れるものなどなにもない

私がスピリッチュアリティと呼ばれるものを通して手に入れたかったのは、『絶対に安全な砦』です。

”外側でどんな危険なことがおきても、私はここにいるから平気。絶対に脅かされることはない”、という場所。求めていたのは究極の安心感と保証です。

瞑想したら、不動の自分、ゆるがない心の平安が手に入る。
真理を知ったら、二度と混乱せず、いつでも正しい最善の答えがわかるようになる。

要は、傷つくのが嫌、不快な感覚をすべて遠ざけて、好きな物だけで身の回りを固めたかったんです。あたりには、”こうやったらそれが手に入るよ”、とうたうセミナーや本がたくさんありました。

物事の本質を垣間みたとき、”ここに存在するのはたった一つ”、すなわち、秘密にできることなど何もなく、引ける境界線などなく、砦を作ることなどできない、とわかって愕然としました。

よく使われる例えですが、世の中に存在するすべての”形ある物”は”私”も含めて、本当に、命の大海に起きる波のようなものです。波である私の周りに砦を作ることなど、できるはずがありません(_ _;) 波はいつも動いていますし、そもそも、どうやって海や他の波との境を決めることができるでしょうか。

ということは、周囲から自分を切り離して安全な場所に逃げ込むなどありえない・・・命はすべてをありのままに含む。すべてといったらすべて、です。ありのまま、というのは、本当にあるがまま、です。混乱も、みじめさも、迷いも、怒りも、喜びや至福、愛情とすべて同じく含まれるのです。

守れるものなど、何一つありません。
起きて来ることはただ起きていて、私たちは否応なく、そのすべてとつながっているからです。それが好みにあっていようとなかろうと。

さて、思ってたのと全然違うけど、本当にこんなもんが欲しいのだろうか・・・

と、思った時は手遅れでした。消去ボタンを押しても、記憶から消えない。見なかったふりをするには、はっきり見すぎてしまった。だけど、『好き・嫌い』とか『いい・悪い』という思い込みは自分の中にしっかり残ってる。嫌いなものへの抵抗も、しっかり残ってる・・・よくパニックを起こして、無意識に幻の安全な砦を探し、無い物を探すことで余計に苦しみを増していました。

”唯一の現実”、が何度も、色んな形で明らかになっていくにつれ、好き・嫌いを問題視することがなくなっていました。ただ、これは自分の力の及ぶところではないので、いつどんなところで、ふいにまた同じ反応が起きないとは限らない、そしてそれは、起きて見るまでわからない、といった感じです。

2014年10月6日月曜日

私とイシャヤのアセンション

私はここ15年間の探求を、イシャヤのアセンションと呼ばれる瞑想法とともに歩んできました。

イシャヤのアセンションは、私にとってとても不思議なものです。他のすべてのものと違い、私が追い求めた、というより、偶然や事故の連続でどんどん深く入って行ったような感じがあります(笑)。そのためにアメリカまでやってきました。

この15年の間には、『これは素晴らしい、世の中の人すべてが学ぶべきだ!』、『なによ、なんの効果もないじゃない』、『どうしてこんなことやってんのかしら?』、『やっぱりこれって素晴らしいわ』等々、様々な波を経験しました。U.G.クリシュナムルティやジェッド・マッケナの本に出会って、瞑想なんかやってもなんの意味もないのよ、とやめた時期もあります。

それでも、繰り返し戻って行き、昨年教師になるにまで至りました。

イシャヤのアセンションに関しては、私はどうも、いつも、頭で思っているのと全然違う行動を取ってしまうように思えます。頭は常にやめる理由を見つけ、続けるには、それを正当化できる理由を探さなくてはならない、と騒ぎます。

非二次元は特にいい材料でした。非二次元のメッセージを真に理解するなら、瞑想するのは矛盾している、と頭の中の声は大騒ぎ。しかし実際はというと、ただ規則的に、淡々と瞑想している自分がいる。

ある時点で、”ああ、これは私というこの個体に、ただ自然に起きてることなんだな”、と気づいて、抵抗が止みました。何かのためではなく、ただやっていること。

そして頭が猛反対していても、大賛成していても、それにまったく関係なく続けることができる、この瞑想の無理のなさ、自然さに改めて感心しました。

努力のいらない瞑想法です。これについてはまた、別に書きたいと思います。

2014年10月5日日曜日

わかってないのに知っている、という不思議

私の師カーリーは、”存在している唯一のもの”に私たちの意識を向けること、それだけを教えます。この、人に教えることが不可能なもの、自分で思い出すことしかできないことについて、”ここにあるでしょ?自分で見てごらん。”と指し示し続けます。

私が最初に彼女に出会ったときからそうでした。
”ここにあるでしょ。わかっているでしょう?”

そう言ってじっと目を覗き込まれると、分からなくちゃいけない、正しい答えを見つけなくてはいけないと思って、ハラハラすることが何度も何度もありました。

正直、彼女が何をさしているのか、何年間もの間まったくわかりませんでした。
それなのに、”これ、から離れて存在してるものがある?”と聞かれて、じっと自問してみると・・・正しい答えを見つけないと、という焦りやパニッックを通りぬけ・・・「ない」ということがはっきりしていました。

それは本当におかしな感じでした。頭ではわからないのに、どこかでその答えをはっきりと、疑い得ないこととして知っている。

もちろん、いつでもこの知っている感覚が起きたわけではありません。彼女によく思われたくて、あるいはそれが正しい答えのはずだからと思って『ない』と答えたこともあります。

私にとってはすごく重要なことに思われた、人生のドラマについて相談してるのに、それについてのアドバイスでなく、”ここにあるもの”に意識を向けろ、と言われてイライラしたことも何度もあります(笑)。

たまたま意識が同調して、私の抱えていた問題やドラマが、唯一存在するものの中に消え去って行く経験をして、興奮したこともあります。

それらすべての経験を報告するたび、彼女に尋ねられました。
”それで、今はどう?今この瞬間に、それはここにある?”

色々な知識を積んだら、いつかわかることではない。
私の内面がもっと浄化されたら、見えるようになるんでもない。
昨日の瞑想のときに経験した神秘体験の記憶の話ではない。

”もし、今この瞬間、ここにないのなら、それは本物ではない。”

これは私にとって、とてもいい指標になっています。

2014年10月3日金曜日

わかっていない

トニー・パーソンズという、非二次元のメッセージを伝える人がいます。彼のメッセージをよくわかっておられる(と、私には見える)方が、”ぼくは未だにトニーの言うことの意味はほとんどわかっていませんが”、と書いておられるのを読んだ時、ふと、”私はいつでもすぐ、”わかった!”、って言おうとして先走っていたなぁ”、と思いました。

察しがいい、頭の回転が早い、などと褒められることが嬉しくて、もっと褒められるべく、”先生!できました!”、”はい!わかりました!”、と素早く手を上げる小学生のノリで、人生のほとんどを生きてきたように思います。

人の話を聞いていても、すぐに”ああー、わかる、わかる〜”、などと相手の言おうとしていることを先取りする。本を読んでもきっとこういうことを言いたいんだろう、と話の顛末・結論を先読みしながら読んでいる。

その結果、答えらしきものの周りにある、多くの大事な情報を取りこぼしました(_ _;)

ここ数年は、”わかった”、と思ったこと、”わかってる”、と思っていたことが実は間違っていた、という発見の繰り返しです。そして”それ”―すべての物が存在するのを可能にしているもの―に再び気づいたとき・・・自分というものが消えて、”それ”しか存在していない、という現実が意識に止まってから、わかる、ということが色んな意味で不可能だと思うようになりました。

一瞬のひらめきを得ることはあります。深い理解を得る瞬間はあります。ただ、その理解はその瞬間のものであって、固めて取っておくことができないのです。わかったものは、するりと、次の瞬間にはすり抜けていきます。

それを忘れて”わかった”、”私はわかっている”と信じる時、自分のどこかに、なんともいえない微妙な不安感がわくのに気づきます。

だからと言って、”わかった”という言葉を使わない、ということではありませんが。

”自分はわかっていない”、という中には、自由さがあります。


2014年10月1日水曜日

ジェニファー・マシューズのたった一冊の本

前にジョーイ・ロットについてのポストでも書きましたが、私は翻訳家、古閑博丈さんのブログの大ファンです。ヒロさんのお勧めのビデオや本を、時折チェックしてみたりします。

ジェニファー・マシューズの本も、その中の一冊でした。ジェニファーについてはまったく知らなかったのですが、ヒロさんの書評にそそられて買ってみました。そして、その素朴で優しい語り口、明晰な表現に恋に落ちました。

”ねぇ、私たちは自分がこういうもの、現実はこういうものって思ってるけど、実はどう?手に取って、こんな風に眺めてみたら、どう見える?”と優しく、ユーモラスな口調で語りかけてきます。

トニー・パーソンズは、『私たちの周りにあるすべてのものが、私たちが探しているものそのものであり、”私はここにいるよ!”と、常に私たちに呼びかけている』と言いますが、ジェニファーの本を読んで、初めて彼の言っていたことがピンときました。

この本は、『ただそのままでいるための超簡約指南』という題で10月9日に発売されます。古閑博丈さん訳です。

ジェニファーは大学で哲学、神学を専攻した人で、ホームレスシェルターでカウンセラーとして働いており、そこで瞑想も教えているそうです。娘さんに捧げる、としたこの一冊だけを出版し、セミナーやミーティング等は行っていません。

隠された小さな、宝石のような本です。

ヒロさんのブログはこちら

2014年9月30日火曜日

マインドは経験を追い求める

マインド(物を認識したり、識別したり、思考や判断を下すといったことを可能にする機能・能力)の性質は”動”です。静寂を経験したときに、『・・・すごい静かだわ。』とつぶやいて、静寂の一部の振りをしながら静寂を破るのがマインドです(笑)。経験が起きると素早くやってきて、その分析、解析、説明、理由付けを行い、意義を説明してくれるのが、マインドです。未来予測もしてくれます。

そんなマインドには、”静”は管轄外です。

例えば静かな湖面に小石を落とすと、波紋が広がります。



波紋は小石が落ちることによっておきた余波です。マインドはこの小石と波紋について永遠にコメントを続けます。しかし、波紋が起きることを可能にしている静かな湖面には、一切興味がありません。動きのない静かな湖面は、マインドの理解がおよぶところではないからです。

スピリチュアリティ、と呼ばれるものを探索する中で、私はこれを何度も繰り返し体験しました。ちょっと不思議な体験や、神秘的な経験が起きると、もうその波紋をおいかけて大騒ぎ・・・その意味合いを探ったり、それについて語ったり、繰り返し頭の中で巻き戻し・再生したり(笑)。そして次の”小石”を求め、もっと大きな体験への期待と妄想を膨らませていました。経験というものが経験に過ぎないこと、起きたことにそれが起きた、という事実以上の意味合いなどない、とわかるまで、当分かかりました。

体験は波紋と同じく、湧いては消えて行きます。追いかけても追いかけても、きりがありません。

波紋が起きることを可能にしている湖面は、波紋が起きる前も、起きている最中も、消えた後も、そこに静かにただ、あります。

2014年9月29日月曜日

内にある空間:外も内もない?!

ヴィパッサナを習って、自分でもコツコツ続けて1年近くたったとき、当時付き合っていた人が頭蓋骨骨折で意識不明に陥る、ということが起きました。そのことを知ったのは病院の面会時間を過ぎた後で、私には何もできることがありませんでした。

意外にも冷静な自分がいました。そして他にできることはないんだから、と、いつも通り座って瞑想をはじめました。

極度のストレスにさらされたとき、人の意識が特別な状態に入り込むというのは珍しいことではありません。起きているのでもない、寝ているのでもない意識状態の中、自分の身体の中と外が、まったく同じであること―どちらも空っぽで、かすかな境のようなものが、二つを分けているにすぎないことを体感しました。

赤い点は空間に満ちているエネルギーを表すと思って下さい。内と外の分けているベールは、かろうじて”私”の形を保っているような、それはそれはかすかなものでした。

この経験は、”私の身体は空っぽであり、外も内も存在していない”という強烈な認識を残しました。

この後しばらくして、自然にヴィパッサナからは離れてしまいましたが、今でも感謝や尊敬の念を持っている瞑想法です。

ちなみに当時のパートナーは奇跡的に全快しました。


2014年9月28日日曜日

内にある空間(1)ヴィパッサナ瞑想法

私が大人になって初めて正式にならった瞑想法は、ヴィパッサナ瞑想でした。この瞑想法は、その厳格さ、ストイックさにおいて、当時私が求めていたものにピッタリでしたが、初心者にとって、10日間の厳しい修行は相当なチャレンジでした。

ヴィパッサナでは、10日間コースのうち、9日間(9日半?)は会話を許されません。この”会話”には、目線を交わすこと、ジェスチャーによる会話、筆談も含まれます。一切の外との交流を断って、自分の内側に向かうことを求められます。読書、日記や手紙を書く等といったこともしてはいけません。

これは思った以上に厳しいことでした。

私は、ちょっと気になることがあるとすぐ人に相談したり、暇を紛らわすために友人とのおしゃべりにいそしんだり、しゃべるということにかなりの依存がありました。言葉での会話を止めても、目線やジェスチャーを使ってのコミュニケーションはほとんど条件反射的におきて、それを避けるためには常に下を向いていなくてはなりませんでした。

人との会話を止められることにより、私が当時一番逃れたいと思っていた、自分の頭の中の会話を永遠に聞く羽目になり、自分の中に溜まっていた怒りがこみ上げて、まさに気が狂うかと思いました。

会話を許された後の半日間の経験は、驚くようなことがたくさんありました。まず、自分の声がまったく変わっていました。それから、それまで一切言葉を交わしていなかったにも関わらず、参加者の人全員に、深いつながりを覚えました。

コースを終えて帰宅したとき、親しくしていた友人の一人は、私の声の変化にすぐに気づき、とても驚いていました。もちろん、この”素敵な変化”は日を追うごとに薄れて行き、1週間もたったときには、私の声はコース前のものに戻ったわけですが。

この初めての瞑想コースは、私にとって相当なインパクトがありました。帰宅後も指示された通り毎日朝夕1時間ずつ、ヴィッパサナ瞑想を行い、上級者クラスにも一度参加しました。

・・・と、いうのが話の前座ですが、続きは明日・・・


2014年9月27日土曜日

瞑想:周囲のものにいつも気づいているのがゴール?

気づく能力、というのは、私たちに生来備わっているもので、特別な能力ではありません。私たちはごく自然に自分の思考に、身体の感覚に、周囲の出来事に気づいています。もし私たちにこの能力がなかったら・・・世界は存在していません。すごく簡単な例でいうと、夜熟睡しているときには、世界は存在していません。

もし興味があったら、今ここで、少しの間目を閉じて、すべてが起きるまんまにしてみて下さい。

頭に色んな考えがわきましたか?家族の声が他の部屋から聞こえましたか?隣人の部屋から食べ物の匂いがしてるのに気づきましたか?

一つのことに気づいて、そこから他へ、また次のものへと、意識が常に自由にあちこち動いているのに気づきましたか?

特定の気になることがあると、注意がそこに縛られてしまうように感じますが、そんなときでも、実は他の出来事に気づいています。ただ、意識が素早く同じ事柄に戻って行く、というだけです。

ストレスにさらされたときに、感覚が研ぎすまされ、通常以上に周囲で起きる事柄を敏感に知覚する、という経験をしたことはありますか?

私たちの現代の生活においては、考えることを過剰に信奉する傾向があるため、私たちの多くが、必要以上に思考に注意を注ぐ癖をつけています。周囲で起きていること、五感・六感が自然に知覚している情報を遮断して、自分の思考にのみ注意を払おうとしているのです。

瞑想を通して、この思考への執着がゆるむと、意識は自由に、広く情報を知覚する状態に戻ります。

ただし、意識を”私”の思うように飼いならす、などということは、間違っても不可能です。次に何に気づくか、どれだけの間そこに注意が向くか、予測することができますか?これから何秒間は音にのみ注意を払う、なんてコントロールが可能だと思いますか?実験してみればすぐにわかることですが、これは不可能です。

意識は奔放です。常に物事に鋭敏に気づいていようとすることは、重複した努力であり、意識の自由な活動を逆に狭めます。”見よう”、”気づこう”とする行為者、無意味な視点、緊張が、そこに保たれるからです。

私にとっての瞑想は、『何もしなかったら、私は何なんだろう』、『すべてのアイデアを捨てたら、人に聞いた話を捨てたら、私は何なんだろう』という問いを、実験的に調べてみる時間です。深い実験の中で、質問も、答えを求める声も消えていきます。ゴールはどこにもありません。


2014年9月26日金曜日

心の休憩 アナ・ヤング シャボン玉ショー

とても夢のあるショーです。心の休憩にお楽しみ下さい。

https://www.youtube.com/watch?v=KMrvR836TFI


空間ー私にとってのヒント

私にとっては空間が、”それ”を一番思い出させてくれます。


こんな写真を見たとき、あるいはその場所に立ったとき、昔は木であるとか、川であるとか、”物”にばかり気がいっていました。それ以上に注意を奪われていたのは、見ているものに関する頭の中のうるさいコメントでしたが、それがわりと静かになった後も、意識は”対象物”に止まっていました。

”それ”に気づいてからは、空間に目がいくようになりました。そこにある物以上に不思議なのは、すごいのは、これらの物が存在するのを可能にしている、その空間そのものだと思うようになりました。

実際のところは”思う”というより、単に目を奪われてしまう、吸い込まれてしまう、といった感じです。

空間は、不思議です。知覚的には、そこには何もない。なんにもない―のに、じっと見ていると、不思議に何かに満ちている。空っぽというより、命に満ちている。

今もし、核兵器が使用されて、地球上のあらゆるものが一掃されても、空間は一切影響されません。核兵器を存在可能にしているのも、この空間です。

私たちが息を吸うとき、空間から10の22乗の分子を吸い込むといいます。この分子は臓器や骨、肉等、人体組織の一部となります。同様に、私たちが息を吐く時、私たちは身体の組織、臓器の一部を空間に吐き出しています。

宇宙のあの深淵な空間と、私たちの目の前にある空間は、一続きの同じものです。
恐竜の呼吸していたのと、同じ空間から、私たちは分子を取り込んだり、そこへ吐き出したりしているんです。

すごいことだと思いませんか。それとも、当たり前すぎますか?笑

2014年9月25日木曜日

”これだよ、これ!”

さて、今日は”それ”、の代わりに”これ”、です(笑)。つまらない言葉遊びをしているようですが・・・一応真面目です。

トニー・パーソンズをはじめとして、リチャード・シルベスタ、ジョーイ・ロット・・・様々な人が、”So....this is it!"とよく口にします。トニーはよく、トークの開口一番でこの言葉を使います。

”これ”・・・目の前にあるもの、今現実として体験しているもの、それだけがすべてなんだよ、どこかにあるかもしれない高次元の星での未来でもない、ナポレオンとして生きた過去生の話でもない、誰かが作り上げた理想の社会や人間像でもない、今、ここにある現実がすべてなんだよ。

椅子に触れてるお尻の感触、外から聞こえる車の音、頭のじんわりとした痛み・・・
そしてそのすべてを構成しているもの。

これがすべてなのに、すでにここにあるものを発見しなきゃいけない、なんてあるだろうか?そのために浄化をしないといけない、何段階もの悟りを得ないといけないなんてあるだろうか?すでに手にしているものを得るために、自分を変えないといけない、なんて馬鹿げた話があるだろうか?師をみつけなくてはならない、高名なグルに自分を捧げないといけない、なんてことがあるだろうか?

目を覚ましなさい、”こうしたらあなたも私みたいに、人生の秘密を知ることができる!”、なんて誰かの戯れ言を信じてもいいけれど、すでに持っているものを、誰があなたにあげることができるんだい?スピリチュアル・セールスマンに、お金を吸い取られるだけだよ。

・・・こんなメッセージを何年も聞きながら、それでも”目を覚ます”ことができなかったのは、目の前の”これ”、”それ”を認めることができなかったからです。

神様はかくれんぼが上手です。


2014年9月24日水曜日

”それ”に最初に気づいたとき

すでに亡くなられましたが、ニサルガダッタ・マハラジ、というとても有名なグルがインドにいました。彼の叡智を表現した、I am THAT『私はそれである』という言葉は、彼の教えを集めた本の題名ともなっており、その教えを集約する表現となっています。

”それ”、というのは、この五感、もしくは六感でも捉えられないものを表現するのにぴったりだと私は思っています。また”それ”はそこいら中に溢れていて、なんら特別なものではありません。その素晴らしい平凡さも表していて、しっくりきます。

私の中で、”それ”がようやく意識にはっきりとまったのは、去年のことです。ただし、これは表面意識でも自覚でき、忘れることのないレベルで思い出した、というだけで、その前にも数えきれないくらい”それ”を思い出すことはありました。誰でもそうです。

最初は、寝ているのでもない、起きているのでもないという中間意識の中で、認識が起こりました。横になって、自分に関するアイデアを一つ一つ放り出していきました。「もう佐藤花子(仮名・笑)しなくていい」、「”私”しなくていい」、「人間しなくていい」・・・といった具合です。自分についてのアイデアを捨てるたび、深い安堵感を覚え、空っぽになると同時に、沈み込んでいくような感覚がありました。

やがて自分が、名前をもらう前にも、”私”という自覚を持つ前にもちゃんと存在していたんだよなぁ、という当たり前のことに、深い意識状態で気づきました。自分に関するすべてのラベルが剥がれても、まだ、私は存在している・・・ただし、この場合の私は、佐藤花子という私とは全く違う・・・

そしてさらに、赤ちゃんとしてお腹に入る前にも、何かが存在していた、その何かが赤ちゃんの身体を形成したこと(赤ちゃんの身体に何かが入ってきた、というのではありません)、この身体が老いて死んでも、同じものが存在し続ける、ということが突然はっきりしました。

その認識は、はっとするもの、まさに一瞬のひらめきで深い光明を得るような感じであったとともに、それがいかに普通のことであるかが明白、という不思議な感じでした。これを飾り立てて、大げさな神秘体験や悟り体験として捉えることは不可能な感じがしました。

2014年9月23日火曜日

瞑想を通して起こりえること:誤った同一化から自由になる

私たちのマインド(物を認識したり、識別したり、思考や判断を下すといったことを可能にする機能・能力)は、本来、とても無垢です。だから教わったことをどんどん吸収します。

空が空という名前だということを覚え、自分の名前は佐藤花子だということを覚え、右というのはこっちの方角だ、といったことを覚えます。社会生活を営む上で便利な能力です。

ただ、マインドは無垢なため、教わったことを鵜呑みにして信じる、という欠点があります。”お前はダメな奴だ”、と言われたら、それを信じ込んでしまったりするのです。”あなたは天才だわっ”というのを信じ込む場合もあります。”ボクは人の言うことを簡単に信じない人間だ”、というのを信じることもあります(笑)。

頭に浮かぶ思考についても、現実とそうでないものの区別がつけられません。誰かに対して、”あの人は私を嫌ってるかもしれない”、という思考がわいたとします。それを何度か頭の中で聞くうちに、それが事実であるかのように信じてしまうのです。そして次に他の誰かとその人の話をするときに、”いやぁ、私はあの人に嫌われてるから。”と発言するような結果になったりします。

思考が自分であると信じ込んでいる状態、思考と自分を同一化している状態は、こんな風に表せます。

ある思考を一点凝視した結果、それが世界のすべてのように見えてしまっている状態です。頭のスクリーン一杯に大声でこんな言葉が聞こえていたら・・・そしてそれが一日中頻繁に起きていたら、本当に辛いですよね。

瞑想、すなわち条件付けられた思考パターンからの解放が起きると、そのような思い込みがゆるみます。すると、こんな感じになります。

スクリーンとそれを知覚している意識の間に距離ができ、もっと大きな全体像が見えます。他にも色んな声が存在していて、”どうせ私なんか”、という声は、たくさんある中の一つであることに気づきます。私=どうせ私なんか、ではないこと、それが単なる思考であることを思い出すのです。物事の本来の姿に気がつく、と言ってもいいでしょう。

これはかなり心の負担を軽くします。そして、前にも言いましたが、これは型にはまった瞑想を通してのみ起こることではありません。野原の真ん中でただ風にふかれているとき、波間に揺られて空を見つめているときに、それまで死にたいくらい悩んでいたことが、急にバカバカしく思えた、という経験は、多くの人がしていると思います。

余計な力が抜ければ、本来の自然なあり方を思い出します。それが私たちに備わっている、自然な生き物としての本能だからです。そのような”ゆるみの機会”、”条件思考から自由になる時間”を与えてくれる瞑想は、どんな形のものであれ、有益です。

逆に私が中学生のときにしていた、ロウソクの炎に集中する、などという瞑想法では、このような”ゆるみ”は起きづらいかと思います(笑)。

ただしこれは、”傍観者”、”観察者”になることがゴールと言っているのではありませんが、それはまた別の機会に書きたいと思います。

2014年9月21日日曜日

”それ”に気がつくこと

中国、唐の時代に黄檗希运(おうばく けうん)という禅僧がいたそうです。彼の教えを伝える『伝心法要』は、Transmission of the Mindというタイトルで英語訳が出版されており、アメリカでも禅のクラシックとして多くの人が高い評価をしています。私は2年ほど前、デービッド・ホーキンズ(『パワーか、フォースか』の著者)のリストで非常に高く評価されていたのを見て買ってみました。

簡潔な言葉で頭をストップさせてしまう、素晴らしい力がある教えだというのが、私の個人的な感想です。強く打たれたことの一つに、”一瞬の閃光によって真実を垣間みることがなければ、どんなに修練を積んでも無駄である”というのがありました。

私たちが真に求めているもの・・・表面意識ではわからなくても、存在の一番深いところで求めているものは何か。この、目で見ることも、耳で聞くことも、肌で触れることも、舌で味わうことも絶対不可能なもの。頭で理解することが不可能で、”感じる”ことすらできないもの。それなのに、常に、あたり中に、すべてに満ち満ちているもの・・・”それ”を垣間みること。”それ”についてひらめきを得ること。

この一瞬の閃光は、努力で起こすことはできません。厳しい修行をしたご褒美に得られるものではありません。善行を積んだら起きることでもありません。ただ、いつもそこいら中にあるものです。すべてがそれでできています。”それ”しか存在していないのです。

ブッダをはじめ、多くの先人が、努力に疲れ果てた末に”それ”に気づく、という経験をしています。そして多くが、それまでいかに無用な努力をしていたかに気づき、”修行の利点は、せいぜい自分の力で物事を成せる、という我の意識を疲労困憊させることくらいだ”、と言っています。

修行なんか一切しなくたって、スピリチュアルの”ス”の字も聞いたことがなくたって、自然と”それ”に気がつく人も多くいるのは、当然のことだと思います。だって私たちは、”それ”以外の何物でもないのですから・・・頭と心がゆるんだ瞬間に、それが突然自明のこととなる。忘れていた事実を単に思い出す・・・ごく自然なことです。

私は初めて”それ”が、忘れることのできないレベルで意識にとまったとき、懐かしい気がしました。ああ、子供の頃に当たり前に知ってたことだ、と思い出しました。私は長年瞑想をしていますが、瞑想の結果起きたことではないことは明白でした。