2014年5月18日日曜日

私の旅

多くの人が経験したことだと思いますが、私は子供の頃、自然や神様や不思議なことが大好きでした。幼なじみが幼稚園入園のために、キリスト教の教会に通い始めた時にはとても羨ましく、賛美歌を借りて、巻末に載っていた主の祈りを暗記しました。オカルト好きだった両親が揃えていた漫画、”後ろの百太郎”や”恐怖新聞”の影響で、守護霊様と交信しようとか、道のゴミを拾って善行を積むとか、瞬きを減らして金星人のように潤んだ瞳になるようにするとか・・・いやはや、おかしなことをたくさんしました(笑)。小学校の間に、ブッダ、キリスト、一休さん、ギリシャ神話、日本神話、その他偉人・聖人に関する本をたくさん読み、聖書、ラーマーヤナ、マハーバーラタも読みました。中学に入ってからは、お小遣いをためてはUFO関連の本や密教に関する本を買い、ロウソクの炎を見つめて集中する訓練をしたり、意味もわからないまま般若心経も暗記しました。夜寝る前には知っている限りの神様にお祈りをしました。神様の数は日々増え続け、誰かを忘れて怒らせはしないかと、毎晩心配しながら一生懸命お祈りしました。お祈りの習慣は大学を終える頃まで続きましたが、どうして世の中にはこんなにたくさんの神様がいるのか、いつも不思議に思いました。

一体誰が本当の神様なんだろう?すべてを統一するものはないのだろうか?たった一つ、これだけ信じればいい、というものがあったらいいのに。そうしたらただ一心に、それだけに向けて祈ることができるのに。

大学卒業後、神様のことは忘れ、人生の忙しさに没頭していったのですが、いくつかの挫折を経験し、名声や富、成功を追うことに疲れ果てたときにニュー・エイジの世界に出会い、その美しいアイデアに強く惹かれました。悟り・目覚めこそが人間として到達できる最高の頂点だと思い、その達成に向けて、様々な道を探求しはじめました。そうして長い長い探求の旅を続けました。

旅の終わりは昨年秋に訪れました。自己の本質、存在の本質を体感し、何かを探す旅は終わりました―同時に新しい旅が始まりました。”自分”という感覚が剥がれ落ちていくにつれ、言葉では表現不可能な命の源が、その存在を現していきます。

かつて、私は悟りというものは、個人が努力、信心、修練、修行、浄化等といった過程を経て到達・達成するものだと思っていました。目覚めというものは”最高の自分に生まれ変わる”とか、”最上の自分を達成する”ことだと思っていました。目覚めというものが、”私”に一切関係なく、単に自然な現実がありのままの姿を現すことであるとは、思いもよりませんでした。その自然な現実の中においては、”自己”、”個人”、”私”、というものが、火、水、土といったような一つのエネルギーであり、”私”という個の存在が幻想に過ぎないなどとは、まったく思いもしませんでした。

人が目覚めを迎える―人に目覚めが起きる、悟りが訪れるのに、決まった方式や処方箋などありません。厳しい修行の果てに悟りを迎えたとか、修行の最中のふとした瞬間に悟りを得た、臨死体験で悟りを得た、などという話をたくさん聞き、長年、そういう形でしか起きないのだ、という思い込みが私の呪縛になっていました。実際には、目覚め・スピリッチュアリティなどといったことなど一切聞いたこともなかった人が、バス停でバスを待っている間や、地下鉄に乗っている間に、あるいは車を運転している時に、突然、”それ”を迎えたというケースも数あるといいます。

無限なるものがその姿を現すのに、決まった形や方式などあるわけがありません。

私自身の場合、イシャヤのアセンションと呼ばれるテクニックが旅の供となりました。なので、このブログではイシャヤのアセンションについて多くお話すると思います。また他に、バイロン・ケイティ、アディヤシャンティ、トニー・パーソンズ、UG クリシュナムルティ、デービッド・ホーキンズ、ベルナデット・ロバーツ、アンソニー・デ・メロ、といった方々に深い影響を受けています。これらの方々についても、出会いを通じて教わったこと等、書いていきたいと思います。

興味ある内容について、カテゴリーから選択して読んで頂けたら幸いです。


2014年5月13日火曜日

私の師 カーリー・イシャヤ

私のここ13年間の旅は、私の師との出会い、その影響を除いて語ることはできません。

私の師はカーリー・イシャヤというアメリカ人女性です。カーリーというのはヒンドゥー神の名前で、彼女がイシャヤの僧侶となる誓いをたてたときに与えられた名前です。彼女の人生はイシャヤのアセンションへの献身と、彼女から学ぼうと集まる人たちへの奉仕に捧げられています。彼女は真に目覚めている人ですが、インターネットも一切しませんし、本も出版していないので、私たちのコミュニティ外では誰にも知られることのない存在です。もし彼女と出会っていなかったら・・・私のアセンションの理解は、個人としてenlightenmentに至るための道具、という範疇にとどまっていたと思います。

彼女は”すべてなるもの”へ私たちの注意を促し続けます。同じ真実について語る多くの素晴らしい人々(トニー・パーソンズ、ベルナデット・ロバーツ、アディヤ・シャンティ、バイロン・ケイティ他)についても、すべて彼女から教わりました。

Ascending doesn't cause the Ascendant. Ascending is the Ascendant. (アセンションすることがアセンダントを起こすのではない。アセンションすることそのものがアセンダントなのだ)と彼女は教えます。アセンダントというのはイシャヤ用語ですべてなるもの、すべての存在の源を指します。

そりゃそうです、瞑想や祈り、修練が”すべてなるもの”を起こすわけがない。すべてのmovement=動の源泉はすべてなるものなのですから。ですが、”私”というセンターがあって、それが人生の舵を取っている、と信じているときには、すべては反対に感じられます。”私”の集中力が、理解が高まったから、精進したからすべてなるものにアクセスできる力を得た、と考えます。特にこれが神秘体験を伴うときには始末が悪いです。”私”というエネルギーはspecial(特別)であることが大好きですから、その体験にしがみつきますし、それは瞑想によって起こった、私の瞑想力が上がったから起きた、と主張します。そしてもう一度同じ体験を、もっと強い体験を、と欲を出します。

こういった溝に陥るたびに、カーリーは、ときには優しい言葉で、ときには辛辣な一言で(あるいは冷たい一瞥で・笑)、あるいはシンプルな指摘で、私の軌道修正をしてくれました。”航海しているとき、大海にあってはたった一度の羅針盤のずれは大したことに思えないけれど、そのたった一度のずれが、私たちを全く違う岸に導く結果になる”と彼女はよく言います。

彼女は私にとって、もっともクリアな鏡です。不安が湧いたとき、また自信が湧いたとき、彼女にそれを投げかけてチェックします。そうして静かに無人に帰ります。彼女に出会えたことは、本当に幸運であったと思います。


2014年5月1日木曜日

トニー・パーソンズ  リトリート締めのメッセージ

今回もたくさんの学びがありましたが、コースの最後にトニーが言ったことは心に深く刺さりました。

”あなた方はここで学んだことなど何もない。家に持って帰れることなど何もない。今ここにあるものは、ここから去って帰る途上にあり、家での日常にあるものだ。だからここで聞いたことを応用しようとか、実践しようとか、一切考えないように。すべてはすでに完全なるものなのだから。”

彼のメッセージには妥協がありません。実際、2冊目に出版した本は、妥協していたとして、セミナーで販売もしていません。その姿勢は徹底していて、聞く側に迷いを起こさせません(少なくても私にとってはそうです)。そしてどこまでもシンプルです。本当に行ってよかったと思います。私にとっては精神世界の巨人です―なんて言ったら本人はとっても嫌がると思いますが(笑)。