2014年10月30日木曜日

スピリチュアリティという幻想

私たちの世の中は相反するアイデア、概念で構築されていて、私たちは二極の間で常に揺れている、葛藤を繰り返している ―というようなことは、スピリチュアリティに興味のある方なら、大抵はどこかで聞いたことがあると思います。

黒があるから白がある、
低次元があるから高次元がある、
良いとされることがあるから悪いとされることがある、
好きがあるから嫌いがある、

といったようなことです。何かが高いと決められることによって、他のものが低い、と定義される。

ちょっと前ですが、これがスピリチュアリティそのものに当てはまる、ということに今更気づいて驚きました。

私が最初にスピリチュアリティと呼ばれるものに足を突っ込んだとき、”世の中にはスピリチュアルな人とそうでない人がいて、スピリチュアルに目覚めていない人のエネルギーは周波数が低いことが多く、影響を受けないようにしなくてはならない”、といった考えがあちこちで聞かれました。

そして低次元のエネルギーから自分を守るテクニックとか、果てはシールまで販売している人たちがいて、私もせっせとあれこれ習ったり、買ったりしたものです(^^;)

その考えは卒業したかのように思っていましたが、意外にも洗脳は深かったということに気づいて驚きました。

ちなみに気づいたきっかけは、このトレッドミルの上から見たジムの光景です。


私の通うジムにはテレビモニターが何台も据え付けられ、爆音でロックやポップミュージックがかかっています。

私はトレッドミルを使用するとき、このスピリチュアルでない環境を遮断し、高尚なものに注意を向け続けるために、非二次元教師のビデオやオーディオを見たり聞いたりしている自分、というものに気づいて、”あれ?”と思いました。

”すべては一つのものからできている”、”そこにあるのはたった一つのものでしかない”、というメッセージを聞きながら、私はスピリチュアルなものと、そうでなもの、といった区別をつけている。

おやおや・・・

これはスピリチュアルで、

これは違う、と。

スピリチュアルってそもそも何?そんなもの存在するの?

スピリチュアルというのは、概念以外の何物でもないんだ、と今更再認識しました。

2014年10月28日火曜日

マインドは本当のことと嘘を見分けられない

マインドは外界から刺激を受けると、”前にこんなことあったよね!”、と過去の記憶から関連するデータを素早く取り出します。そして、”あの時こうだったから、これはきっとこういうことだよ”、と記憶に照らして、起きたことに意味や解釈を与えます。それをもとに、次に取るべき行動について案を出してきたりもします。

問題は、その過去の記憶はあくまで主観的なもので、正しいとは限らない、今起きていることに必ずしも関連しているとは言えない、ということです。つまり、マインドには、本当のこととそうではないことの区別がつかないのです。

にも関わらずマインドは、”絶対こうだよ!”とか、”そうに決まってる、だっていつもそうだもん”、などと言います。そして私たちはそうした”頭の中の声”を、正しいものと思い込んでしまいます―少なくとも、私はそうでした。

デービッド・ホーキンズは、こうしたマインドの性質を明確に説明しました。そして通常の私たちの意識が、いかにそうした”頭の中の物語の詳細”に囚われているか、を指摘し、そこからズームアウトしていくとどうなるか、を素晴らしい明晰さで描写します。

小さな物語の主人公としての”私”ではなく、その”私”を見つめているもの、そして”私”という幻影を可能にしているものとしての私。一歩一歩、後ろに引いて、一点凝視の状態を離れ、全体像へ、意識を導いていきます。

”真実というのは、ある事柄を囲む諸々の条件、状況がある中においてのみ成立することであり、Aという事柄において真実であったことを、まったく違う条件で起きたBという事柄に当てはめることはできない。条件、状況を捨てて、真実を普遍化することはできない。”

あの人っていつもこうなんだから!―という思考が走るとき、”いつもって?”と、私は自分に突っ込みます。いつもっていつ?いつもって本当?そもそも、”いつも”ってなに?

関連記事:瞑想を通して起こりえること


2014年10月26日日曜日

愛と神秘:デービッド・ホーキンズ

デービッド・ホーキンズは、私が一時期大はまりした人の一人です。ただし、宇宙科学者のホーキング博士ではありません(ホーキング博士もすごく尊敬していますが)。”Power vs. Force”(パワーか、フォースか)の著者、デービッド・R・ホーキンズです。私は敬愛を込めて、ホーキンズ先生と呼んでいます。

ホーキンズ先生は2012年に亡くなりましたが、私は2009年にセミナーで一度だけ会うことができました。ちっちゃくて、か細くて、深い声が印象深い、とてもお茶目なおじいさんでした。私も主人も、会場を満たしたホーキンズ先生の愛の空気に包まれてぼーっとなり、講演の内容はあまり記憶にないほどです。

彼の提唱するキネジオロジーを使って所有していた本の意識の高さをはかり、トニー・パーソンズの本を再発見した結果、ホーキンズ先生の講演記録を聞けなくなってしまった、というのはなんともおかしな、馬鹿げた話しなんですけれど・・・。

ホーキンズ先生の話は神秘体験に満ち満ちていて、スピリチュアリティのあらゆる愛と夢の幻想に満ちています。高次元の存在、天使、過去生、体外離脱、等々。いかに自分を高めて行くか、エゴを昇華し、神に自分を捧げるか―話しを聞いていると、献身への情熱に駆り立てられます。同時に、私の中にはえもいわれぬ不安が湧いてもいました。

この不安感というか違和感はとても微妙なもので、自分でもはっきりと認識できずにいたのですが、トニー・パーソンズの、”神も天使もいない、あるのはここにあるもの、それだけだ”というメッセージを読んで深い安堵感に包まれ、それまで密かに感じていた不安や違和感がなんだったのか、はっきりしました。

きらびやかな愛と神秘の体験を聞いていると、同じ経験を持っていない自分は、高次の愛に足りていない、という不安感が起きるんです。そこにはまだまだすべき体験、修行、もろもろの長い道のりがあり、途中には避けるべき暗い低次元の存在の誘惑や、チャレンジが待ち受けている、という印象を受けてしまうのです。

そういった意味で横道に逸れるというか、誤解しやすい要素は多いのですが、私はホーキンズ先生の功績は素晴らしいものがあると思っています。

最近、ホーキンズ先生の『I (私)』という本が増刷されたので、この機会に少し、ホーキンズ先生から学んだことについてお話したいと思っています。

ちなみにこの本は私の古いお友達、立花ありみさんが訳しています。立花さんはなんとも心のきれいな人で、翻訳もその人格がそのまま出ているというか・・・まっすぐな訳は、アカデミックなこの本にぴったりだと思います。(よくこれだけの本を訳したなぁ、と尊敬します。)


2014年10月21日火曜日

開いた分しか受け入れられない

若い頃、「はみだしっこ」という漫画に出会い、大はまりしました。それまで親にかわいがられよう、人に好かれようと直球で努力してたのに、それがどうにもうまくいかなくなっていた時期でした。それでまっすぐであるより、漫画の主人公達みたいな、ちょっと斜に構えた姿勢が格好いいと思うようになりました。素直にかわいくあろうとするのがうまくいかないなら、こっちにいってやる!―てな感じです。

さらに大学時代、つかこうへいにはまったりして、余計に一癖あるのが格好いいと思うようになりました。なんでも素直に受け入れるのではなく、いちいちいちゃもんをつけるのが格好いい、という姿勢です。

内心は不安と恐怖で一杯だったのに、虚栄を張って、ひねくれの美学を実践すべく、できる限りのところまで意地を張りました。時折、すごく心のきれいな人を見て、自分が心底いやになる、ということもありました。あんな風にあれたらなぁ、と深い憧れを感じたのも覚えています。

さて、虚栄心が深いと、受け入れ窓口は極端に小さくなります。いい、と思うものを認められないからです。ある意味、認めたら負けだからです。そしてどんどん、自分を檻に閉じ込める結果となります。前に言ったことを覆すわけにいかないから、メンツが潰れるから、といった愚かしい理由で、どんどんどんどん、色んなものを拒絶していくようになります。そして私は息ができなくなる寸前までいきました。

スピリチュアリティなるものに出会った時、今度は反対の極にまっしぐらに走りました。自分を開くのが偉い、見栄をはるのはいけない、純粋にならなくてはいけない、等々という新しいスタンダードに見合うためです。

一時は自分が良い人間になっていくような気がしたのですが、気がつくと、これもただの拒絶の繰り返しでした。エゴはいけない、ネガティブな思考や態度はいけない、こだわってはいけない、執着してはいけない・・・当然、周囲の人や物も、常にこういった物差しで測っている。窓口は狭くなるばかり、息苦しさは増すばかり。

それでも幸運なことに、様々な人や物に出会い、”ゆるみ”というものが起きていきました。

”ゆるみ”というのは、文字通り、自分の中で固く信じてきたことがゆるむことです。”ゆるみ”が起きると、何層もの無意識の条件付けによって縛られていたエネルギーが、だんだん解放されるような感じがします。拒否感が減ると、”平気なもの”が増えます。これはいけない、これは嫌い、と決めつけ、繰り返し自分に教え込んできたことが、本来の、”すべて平気状態”に帰っていくからです。

すべて平気というのは、すべて好きになる、というのとは違います。嫌いでいることにも、好きでいることにも、感情的なこだわりが湧かない、あるいは継続しない、とでもいいましょうか。

自分に合わない意見も、嫌いな話しも、ひとまず聞けます。それでも嫌いかもしれないけれど、それを問題視することも、逆に自分を正しいと思うこともなんとなくなくなっています。どんな反応、意見、感情、感覚も、ゆるむほどに個人的な色を失っていきます。するとさらに、すべての意見、感情、感覚が一定ではなく、刻々と変わっていることに気づきます。

すべての条件付け、良い悪い、こうあるべき、といったルールや固定的な考えは、この社会で上手に生きて行けるためのものですが、実際のところはあまりうまく機能していないように思います。

真に解放されるには、個人の思考からのみでなく、文化のインプットから、人類の思考の球体から抜け出さなくてはならない、と言ったのはU.G.クリシュナムルティだけではありませんが、私は彼のことをよく思い出します。


2014年10月20日月曜日

めんどうくさい

最近、急に色々面倒くさくなってきました。

去年教師養成コースを卒業してから、いかに”唯一なるもの”に意識を置き続けるか、見えた、と思ったものは本当なのか、瞬間瞬間見つめてみること、確認すること、が興味の対象のすべてでした。逆にそのせいで疑いが湧いたり、わかっていると思ったものがわからなくなって、混乱やパニックを繰り返したりもしました。

私の心はいつも真理に向かっているだろうか?それとも真理という名前の元に、それを通して何か他のものを欲しがっているのだろうか?自分にはわかってる、という勘違いの罠にはまってはいないか?

本当に見通せるまで、とことん見つめるのだ、自分のすべてを捧げるのだ、という思いがありました。このブログを書くにも、その時々で自分に見えている最上ものを、できるだけ正直に書いてみよう、という思いがありました。できるなら、純粋なものだけをシェアしたい。

突然、急速に、面倒臭くなって来ました。

何が面倒かというと、この”すべてを見張っている感覚”が面倒でたまらないのです。自分と目の前に置きていることの間に、余計な確認・認証ステップが入っているようで、それが面倒くさくて、どうでもよくなってきました。

最上の真理を見つめているか?あの非二次元の人が言ってること、この教師が言ってることは、私の現実観とあっているだろうか?―ある意味、知ったことじゃない、というか、気にする暇があったら、目の前のことに飛び込みたい。実際に取りかかるほうが忙しくて、それどころじゃない。それは掃除をするとか、人と話すとか、何一つ特別なことではないんですけど・・・それこそ、時には駐車場でただ陽にあたって立ってるだけなのに、立っているのと陽にあたってるのが忙しく、”私と私の真理”を気にしてられない、という感じです。

書くなら書く、ということだけに向かいたい衝動があって、純粋かどうかなんてうっとうしい自己評価をいちいちしていられない。

そもそも、スピリチュアリティが特別、なんて思ってたのが現実離れしているし。”私など存在しない”という事実が自分の唯一の現実になってるか、なんて確認できるわけないし。

この一年、自分の現実観が刻々と変わって、数ヶ月前に自分の書いた物を読み返すと、自分で書いたと思えない、ということがよくありました。

突然ブログの語調が変わるやもしれませんが、それでも読んで下さる方には、深くお礼申し上げます。


2014年10月17日金曜日

アマゾンのレビューがすごい

時折、私の好きな本が翻訳されているかどうか、アマゾンで調べてみたりします。

ついでにレビューを読んだりするのですが・・・下手な悟りに関する本を読むより、よっぽどすごい、と思うレビューを見つけることが多々あります。レビュー投稿者の素性やブログを探したくなってしまうくらいです(実際に探そうとしたこともあります^^)。

投稿者の深い知識や理解が表れているレビューもありますし、何も知らずに自然に目覚めてしまった、という感じがそのまま出ているレビューを見たこともあります。自分に何が起きたのかわからなくて、手がかりを探して本を読んでみたけど、理屈にはついていけない。もう起きているがままで仕方ないかな、みたいな。

感動しました。
アマゾン・レビュー、恐るべし。


2014年10月16日木曜日

イシャヤのアセンション教師への過程

インディアナのコースから帰ってきました。参加者は新旧生徒、教師含めて13名、とても良いコースでした。

私は12年前、イシャヤのアセンションの教師養成コースに参加する予定でいました。しかし当時の団体が解散してしまい、それは叶わぬこととなりました。このままではアメリカまで来たことの意味がなくなる、それまで色々努力してきたことが無駄になる・・・なんとか自分のやってきたことの意義を見いだそうとして、教師養成コースを自主的に開催することにしました。

私の師カーリーがサポートしてくれ、他に数人が集まり、小さなコースを行いました。

イシャヤのアセンション教師養成コースには、大きく分けて二つの重要なパートがあります。一つは集中的なアセンションで、最低4ヶ月は目を閉じて、一日10時間以上アセンションをします。そしてその後、実際にコースを指導するための準備を行います。

私の小さなコースは4ヶ月後、集中的なアセンションを終えたところで終了となりました。カーリーの判断で、誰一人教師となるための次の過程に進むことはありませんでした。

当時の私は、自分がなにをやっているのか、まったくわかっていませんでした。一なるもの、アセンションではアセンダントと呼んだりしますが、それが何かも意識の上ではわかっていませんでした。あくまで、”私”という観点から、これまで色々犠牲にして頑張ってきたのだから、何かの証を手に入れたい、報酬が欲しい、と思っていただけでした。

頭の片隅では、”今教師になって、一体何を教えるというのだろう?ただアセンションのテクニックを教えればいいというものではない”、とわかっていたので、ならなくてほっとしたのですが、同時に癇癪も起きました。”私”に何もくれないアセンションに、とても腹がたちました。

それから10年以上たって、もう教師になるつもりなどなかったときに、教師になりました(^^;)。おかしなもんです。

教師養成コースの中で一番印象に残っているのは、カーリーの、

"You can't teach what they already are."という言葉です。

”みなすでに命そのものなのだから、教えられることなど何もない。生命そのものに、どうやって生命であることを教えるというのか?”これを聞いたときは水に打たれたような気がしました。

私たちはたまたま、自分が生命そのものであるという事実を繰り返し思い出すことを知り、習慣としている。それを望む人と分かち合うことができる、それだけです。

見知らぬ人々の前に座って話しをするとき、緊張も不安も湧きます。ただその時、そこに座っている”私”のみならず、目の前に座っている”人”などおらず、そこにあるのは命だけだ、と思い出せることは、本当にありがたいことです。

2014年10月9日木曜日

On the road

イシャヤのアセンションコースのため、インディアナ州まで行ってきます。
しばし、お休みさせて頂きます。






   

2014年10月8日水曜日

守れるものなどなにもない

私がスピリッチュアリティと呼ばれるものを通して手に入れたかったのは、『絶対に安全な砦』です。

”外側でどんな危険なことがおきても、私はここにいるから平気。絶対に脅かされることはない”、という場所。求めていたのは究極の安心感と保証です。

瞑想したら、不動の自分、ゆるがない心の平安が手に入る。
真理を知ったら、二度と混乱せず、いつでも正しい最善の答えがわかるようになる。

要は、傷つくのが嫌、不快な感覚をすべて遠ざけて、好きな物だけで身の回りを固めたかったんです。あたりには、”こうやったらそれが手に入るよ”、とうたうセミナーや本がたくさんありました。

物事の本質を垣間みたとき、”ここに存在するのはたった一つ”、すなわち、秘密にできることなど何もなく、引ける境界線などなく、砦を作ることなどできない、とわかって愕然としました。

よく使われる例えですが、世の中に存在するすべての”形ある物”は”私”も含めて、本当に、命の大海に起きる波のようなものです。波である私の周りに砦を作ることなど、できるはずがありません(_ _;) 波はいつも動いていますし、そもそも、どうやって海や他の波との境を決めることができるでしょうか。

ということは、周囲から自分を切り離して安全な場所に逃げ込むなどありえない・・・命はすべてをありのままに含む。すべてといったらすべて、です。ありのまま、というのは、本当にあるがまま、です。混乱も、みじめさも、迷いも、怒りも、喜びや至福、愛情とすべて同じく含まれるのです。

守れるものなど、何一つありません。
起きて来ることはただ起きていて、私たちは否応なく、そのすべてとつながっているからです。それが好みにあっていようとなかろうと。

さて、思ってたのと全然違うけど、本当にこんなもんが欲しいのだろうか・・・

と、思った時は手遅れでした。消去ボタンを押しても、記憶から消えない。見なかったふりをするには、はっきり見すぎてしまった。だけど、『好き・嫌い』とか『いい・悪い』という思い込みは自分の中にしっかり残ってる。嫌いなものへの抵抗も、しっかり残ってる・・・よくパニックを起こして、無意識に幻の安全な砦を探し、無い物を探すことで余計に苦しみを増していました。

”唯一の現実”、が何度も、色んな形で明らかになっていくにつれ、好き・嫌いを問題視することがなくなっていました。ただ、これは自分の力の及ぶところではないので、いつどんなところで、ふいにまた同じ反応が起きないとは限らない、そしてそれは、起きて見るまでわからない、といった感じです。

2014年10月6日月曜日

私とイシャヤのアセンション

私はここ15年間の探求を、イシャヤのアセンションと呼ばれる瞑想法とともに歩んできました。

イシャヤのアセンションは、私にとってとても不思議なものです。他のすべてのものと違い、私が追い求めた、というより、偶然や事故の連続でどんどん深く入って行ったような感じがあります(笑)。そのためにアメリカまでやってきました。

この15年の間には、『これは素晴らしい、世の中の人すべてが学ぶべきだ!』、『なによ、なんの効果もないじゃない』、『どうしてこんなことやってんのかしら?』、『やっぱりこれって素晴らしいわ』等々、様々な波を経験しました。U.G.クリシュナムルティやジェッド・マッケナの本に出会って、瞑想なんかやってもなんの意味もないのよ、とやめた時期もあります。

それでも、繰り返し戻って行き、昨年教師になるにまで至りました。

イシャヤのアセンションに関しては、私はどうも、いつも、頭で思っているのと全然違う行動を取ってしまうように思えます。頭は常にやめる理由を見つけ、続けるには、それを正当化できる理由を探さなくてはならない、と騒ぎます。

非二次元は特にいい材料でした。非二次元のメッセージを真に理解するなら、瞑想するのは矛盾している、と頭の中の声は大騒ぎ。しかし実際はというと、ただ規則的に、淡々と瞑想している自分がいる。

ある時点で、”ああ、これは私というこの個体に、ただ自然に起きてることなんだな”、と気づいて、抵抗が止みました。何かのためではなく、ただやっていること。

そして頭が猛反対していても、大賛成していても、それにまったく関係なく続けることができる、この瞑想の無理のなさ、自然さに改めて感心しました。

努力のいらない瞑想法です。これについてはまた、別に書きたいと思います。

2014年10月5日日曜日

わかってないのに知っている、という不思議

私の師カーリーは、”存在している唯一のもの”に私たちの意識を向けること、それだけを教えます。この、人に教えることが不可能なもの、自分で思い出すことしかできないことについて、”ここにあるでしょ?自分で見てごらん。”と指し示し続けます。

私が最初に彼女に出会ったときからそうでした。
”ここにあるでしょ。わかっているでしょう?”

そう言ってじっと目を覗き込まれると、分からなくちゃいけない、正しい答えを見つけなくてはいけないと思って、ハラハラすることが何度も何度もありました。

正直、彼女が何をさしているのか、何年間もの間まったくわかりませんでした。
それなのに、”これ、から離れて存在してるものがある?”と聞かれて、じっと自問してみると・・・正しい答えを見つけないと、という焦りやパニッックを通りぬけ・・・「ない」ということがはっきりしていました。

それは本当におかしな感じでした。頭ではわからないのに、どこかでその答えをはっきりと、疑い得ないこととして知っている。

もちろん、いつでもこの知っている感覚が起きたわけではありません。彼女によく思われたくて、あるいはそれが正しい答えのはずだからと思って『ない』と答えたこともあります。

私にとってはすごく重要なことに思われた、人生のドラマについて相談してるのに、それについてのアドバイスでなく、”ここにあるもの”に意識を向けろ、と言われてイライラしたことも何度もあります(笑)。

たまたま意識が同調して、私の抱えていた問題やドラマが、唯一存在するものの中に消え去って行く経験をして、興奮したこともあります。

それらすべての経験を報告するたび、彼女に尋ねられました。
”それで、今はどう?今この瞬間に、それはここにある?”

色々な知識を積んだら、いつかわかることではない。
私の内面がもっと浄化されたら、見えるようになるんでもない。
昨日の瞑想のときに経験した神秘体験の記憶の話ではない。

”もし、今この瞬間、ここにないのなら、それは本物ではない。”

これは私にとって、とてもいい指標になっています。

2014年10月3日金曜日

わかっていない

トニー・パーソンズという、非二次元のメッセージを伝える人がいます。彼のメッセージをよくわかっておられる(と、私には見える)方が、”ぼくは未だにトニーの言うことの意味はほとんどわかっていませんが”、と書いておられるのを読んだ時、ふと、”私はいつでもすぐ、”わかった!”、って言おうとして先走っていたなぁ”、と思いました。

察しがいい、頭の回転が早い、などと褒められることが嬉しくて、もっと褒められるべく、”先生!できました!”、”はい!わかりました!”、と素早く手を上げる小学生のノリで、人生のほとんどを生きてきたように思います。

人の話を聞いていても、すぐに”ああー、わかる、わかる〜”、などと相手の言おうとしていることを先取りする。本を読んでもきっとこういうことを言いたいんだろう、と話の顛末・結論を先読みしながら読んでいる。

その結果、答えらしきものの周りにある、多くの大事な情報を取りこぼしました(_ _;)

ここ数年は、”わかった”、と思ったこと、”わかってる”、と思っていたことが実は間違っていた、という発見の繰り返しです。そして”それ”―すべての物が存在するのを可能にしているもの―に再び気づいたとき・・・自分というものが消えて、”それ”しか存在していない、という現実が意識に止まってから、わかる、ということが色んな意味で不可能だと思うようになりました。

一瞬のひらめきを得ることはあります。深い理解を得る瞬間はあります。ただ、その理解はその瞬間のものであって、固めて取っておくことができないのです。わかったものは、するりと、次の瞬間にはすり抜けていきます。

それを忘れて”わかった”、”私はわかっている”と信じる時、自分のどこかに、なんともいえない微妙な不安感がわくのに気づきます。

だからと言って、”わかった”という言葉を使わない、ということではありませんが。

”自分はわかっていない”、という中には、自由さがあります。


2014年10月1日水曜日

ジェニファー・マシューズのたった一冊の本

前にジョーイ・ロットについてのポストでも書きましたが、私は翻訳家、古閑博丈さんのブログの大ファンです。ヒロさんのお勧めのビデオや本を、時折チェックしてみたりします。

ジェニファー・マシューズの本も、その中の一冊でした。ジェニファーについてはまったく知らなかったのですが、ヒロさんの書評にそそられて買ってみました。そして、その素朴で優しい語り口、明晰な表現に恋に落ちました。

”ねぇ、私たちは自分がこういうもの、現実はこういうものって思ってるけど、実はどう?手に取って、こんな風に眺めてみたら、どう見える?”と優しく、ユーモラスな口調で語りかけてきます。

トニー・パーソンズは、『私たちの周りにあるすべてのものが、私たちが探しているものそのものであり、”私はここにいるよ!”と、常に私たちに呼びかけている』と言いますが、ジェニファーの本を読んで、初めて彼の言っていたことがピンときました。

この本は、『ただそのままでいるための超簡約指南』という題で10月9日に発売されます。古閑博丈さん訳です。

ジェニファーは大学で哲学、神学を専攻した人で、ホームレスシェルターでカウンセラーとして働いており、そこで瞑想も教えているそうです。娘さんに捧げる、としたこの一冊だけを出版し、セミナーやミーティング等は行っていません。

隠された小さな、宝石のような本です。

ヒロさんのブログはこちら