2015年4月21日火曜日

日本上陸

空港に向かう途中で旦那さんが車をぶつけてくれたりして、一時はどうなるかと思いましたが、なんとか!日本に到着し、楽しく1週間が過ぎました。

7年ぶりの日本は、、、、すごい!
感動し通しです(^^)

便利さとか、美味しすぎる食事とか、色々すごいことはたくさんあるのですが、一番感動しているのは、人の優しさ。

道で行きあった人に何かを尋ねると、皆が皆、一生懸命調べて、確認してくれるんですね。人のことなのに、走って行って調べてくれたりまでして。日本に住んでいたときにもたくさん経験しましたが、こうやって久しぶりに触れると、本当に感謝感激です。

週末には、イシャヤのアセンションコースを兵庫で行い、そこでも素晴らしい人たちに出会うことができました。同じことを分かち合える人びとと時間を過ごすのは、この上ない贅沢だなぁ、と、心が溶ける思いがしました。参加して下さった皆さんに、心から感謝しています。

さて、車に乗ってても、飛行機で飛んでても、まったく違う土地に移動しても、やはりまったく変わらないのが、、、"それ"。この空間、この、そこいら中に満ちているもの。そちらに意識を向けると、あの、"私"が移動しているのではなく、変わらない空間を満たす内容物が変化しているのだ、という事実が圧倒的なものとして、その姿を現します。

その変わらない透明さの上にかかる、このほんの薄い物語のベールが、世界を作っているだけ。

オームのシンボルが、妙に頭に浮かんだりします。残念ながら、今日は挿絵ができないのですが、、、


2015年4月14日火曜日

それ?これ

私の体験や認識は、おかしなことに、深まれば深まるほどに神秘性を失って、"普通さ"を増していきます。今回も、ますますそんな感じで、特別とか、神秘とか思い込んできた事実の、あまりの当たり前さに改めて驚愕している感じです。

"それ"でも"これ"でもいいけれど、これはふつうに誰が見ても間違いなく、目の前に、いつでもそこいら中にあります。ただ私たちは、それを徹底して見過ごすように、訓練されています。

「ねぇねぇ、これってなんだと思う?」
「え?」
「ほら、この目の前にある、見えないもの、変くない?」
「そんなん、空気に決まってんじゃん、バカねぇ。」
「…その空気ってやつが入ってるところ、よくわかんないと思わない?」
「空間のこと?空間っていうのよ、くーかん!ホント、バッカじゃないの、この間の授業で聞いたじゃない。それよりサッサとしないと置いてくわよ。」
しぶしぶ…

「いやー、でも、物と物の間にある、この何もない空間っていうの、どうもナゾっすよね?」
「…お前、暇人か?さっさと営業行ってこいっ!クビにするぞっ!」

とかいった按配に。

だけど・・・・
そのただの、何も大事でないはずの空間は、どこまでも果てしなく広がっていて、、、、
世界中、宇宙中に存在するもの全てをあわせたより、はるかに大きくて、、、

それなくして存在できるものなど、何一つなくて。

そしてクルリと視点をひっくり返して、自分を最短距離ー距離ゼロから見てみると、それとまったく同じものしか見当たりません。

この、当たり前な事実のすごさ。

さて、、、見てみましょう。

"それ"につい て知るのは、語るのは、考えるのはもういいから、ただ単純に、まっすぐに、直接、自分で見てみましょう。

さぁ、ご一緒に(^^)。

2015年4月13日月曜日

7年ぶりの・・・

ついに明日、日本に出発です(^^)。7年ぶりの日本。。。。

コースにお申し込み下さった皆様、ありがとうございます。お会いできること、一緒に時間を過ごせることを心から楽しみにしています。

ではでは!

2015年4月12日日曜日

波の間に間に

すべての行為は”私”が行っている ― ”私”が物事を選び、決めているのだから、起きてくる事柄には”私”になんらかの責任がある、と信じて生きることの中には、とてつもない重圧が伴います。

小さな波が、海を、世界を、代表している、と信じ込むようなものです。


『ああ、大変。
太陽はもっと柔らかく照ってもらわないと困るのに、勝手にギンギラ照ってるし、鳥は勝手に飛んでくるし、風は勝手に吹くし、あっちではみんな勝手に波だっちゃってるし・・・
世の中こんなに大きくて、みんな勝手しちゃって、全部責任取りきれないわ(涙)。』

小さな波の間違いは、言うまでもなく(笑)、自分が海の一部であること、自分も風や諸々のからみ合いによって常に生まれては消えていっているのだ、ということを忘れていることにあります。

しかし、ここで・・・
『忘れてはいけないのだわ!私は海の一部なのよ。』
と、自分に言い聞かせることは、なんの役にも立ちません。

『私には責任ないんだわ。』
と、言い聞かせることも、一時しのぎの慰めにしかなりません。

『じゃあ、どうすればいいっていうのよ?!』

・・・正直、波にできることは、何もありません。

波に、波は消せないし。

『(涙)』

海であるっていう事実は、波がなにを信じていても、絶対に変わらないし。

『?!』


どうやっても、変えられないし。

『あら』


どこを見ても切れ目は見当たらない・・・


海は、波がなにを信じようとも、まったく気にしないし。
まったく影響されないし。


波が、”本当の自分”に返るとき ― 海としての自分に返っているときには、波としての自分という意識は、まったくありません。存在しえません。

でもまた風が吹くと・・・


にょき。

波は起こります。そして波としての自分の存在価値や、高さや低さ、昔に比べての変化なんかを考えたりして。

一度・・・あるいは何度も、海としての自分を深く認識しても、波立ったときには動揺しちゃったりします。

『こんなはずじゃなかったのに・・・』

すぐに海に返るときも、しばらくうねり続けるときもあります。

だけど、、、

主体的な経験がどんなものであっても、事実は変わりません。

波は起きては消える。起きては消える。

そして波は、海以外のなにものでもありえません。


だからちょっと、安心して、深呼吸して、くつろいで。。。。

2015年4月10日金曜日

余儀なき選択

choice-less choiceという言葉がくりかえし浮かぶ、今日このごろです。


選択の余地のない選択、選択肢のない選択。好む好まざるに関わらず、そうする以外にない、という表現です。

実際には、起きてくることはすべて、choiceless choiceですから、”あるがまま”の別の顔、といってもいいかも知れません。

”私”という蜃気楼が蜃気楼としてはっきり見えているとき。
”悟り”という蜃気楼の虚実が透けて見えているとき。

”私”と”私のすべきこと”、あるべき姿、取るべき行動、そういった条件付けに気づく間もなく縛られて、ハムスターのごとく回し車の上を必死に走っているとき。

そして、


”私が”、とか、見えている、見えてない、云々のすべてが完全に消えているとき。


それらのすべてが、種から芽が吹き出るように、花がある瞬間に開くように、雲があるとき太陽を覆うように、ただ、それ自体のペースで起きています。

気がつくと、すべてはすでに起きています。


気づいた瞬間に、体中から力が抜けます。

深く、深く、頭が下がる思いがします。

2015年4月6日月曜日

玉ねぎをむいたら: ジョーイ・ロット『これのこと』

ジョーイ・ロットは、

「前回から今回のビデオまで間が開いてしまったけど・・・悟った人だけがする特別な活動が色々忙しかったからなんだ。例えば・・・寝るとか、食べるとか、家族と時間を過ごすとか、書くとか、それとかうんこするとか・・・知りたいかもしれないから一応言っておくけど・・・ガハハハ!!」

と、いうような豪快さと、非常な繊細さを兼ね備えた人です。冒頭の言葉は、”悟った人だけがする、特別なことがある、なんて思ってると、目の前の大事なことを見失うよ”、というメッセージに続きます。

私はヒロさんのブログでジョーイのことを知り、彼のビデオや本を色々見てみました。

正直、最初の頃のビデオには興味が持てなかったのですが、Nothing in the Middleシリーズを見て、とても好感を抱きました。と言うか、彼の豪快な笑い声の気持ち良さと、澄んだ目が大好きになりました(昔の記事:隣のグルナマケモノ)。

ジョーイの魅力は、そのメッセージのシンプルさと普通さにあります。皆が探し求める”究極の幸せ”は今ここにあり、何一つ特別ではなく、それが故に限りなく豊かで自由である、ということを、どこまでも簡単な言葉で伝えようとします。

私の友人に、エクハルト・トーレ、トニー・パーソンズ、ガンガジ、アディヤシャンティ他、有名な人の本やビデオを色々試して、”難しくてわかんない”、と言い続けていた人がいるのですが、ジョーイのビデオを見て、彼の言ってることはわかりやすい、と喜んでいました。

Nothing in the Middle - 真ん中、中心には何も無い、という題名からは、有名な玉ねぎの例えを思い出します。

”玉ねぎを剥き続けると、最後には何も残らない” 玉ねぎの芯は空っぽである、というやつです。

ジョーイのメッセージは、探求にまつわる幻想の皮を、一枚、一枚、剥がしていくようなものです。
”どこかに隠された、特別な秘密の手法があるなんてウソだよ”
”本当の先生を見つけたら、真理にたどり着けるなんでウソだよ”

そして何よりも、
”探さないとみつからない、なんて大ウソなんだよ”

めくってごらん。ゆるんでごらん。どこを探しても、今、ここに、目の前にあるものだけがすべてなんだってことが、この瞬間にわかるよ。

ウソや幻想の皮をはがすと同時に、ジョーイは常に玉ねぎの”芯”を示し続けます。全部剥き終わるまで待つ必要はない、芯にあるものは、すべてに満ちている、ということを一貫して伝えます。

そういう意味で、『これのこと』というヒロさんの命名は、最適だなぁ、と思います。それだけが、彼の視線が向かうところだからです。それだけが、彼に見えているものだからです。

ヒロさんのブログで訳を読んで、その絶妙さに舌を巻いていたのですが(ジョーイが日本語をしゃべったら絶対こんな感じ!と思いました)、書き手の視線を捉えて、最も適切な訳をしてくれる人に出会えて、ジョーイもラッキーだな、と思います。

広く、たくさんの人に楽しんでもらえたらな、と、思う本です。自分の本では無いけれど(笑)。こんなメッセージが日本でどんな風に受け入れられるのか、楽しみに思います。

あえて一つだけ言うなら・・・個人的にはもっと大きなフォントが好きかな(笑)。単に私の老眼のせいです。

でもそうしたら、絶対最低でも2冊になったはずの本で、そこがヒロさんの気前の良さというか、読者思いなところというか・・・

大変お徳な本です(笑)。

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イシャヤのアセンション東京コース、まだ数席空きがありますので、瞑想に興味がありましたら、是非ともこちらからお問い合わせください。

2015年4月3日金曜日

ふと触れるもののすべてに

ようやく!臨時のアパートが決まりました。

これから7−9ヶ月、ここに落ち着くことになりました。たった3階なんですけど、丘の上に建っているので、すごく見晴らしがいいです。

たった3階なんですけど・・・今回の引っ越しはハードでしたっ!いやもう、平屋に暮らして、車で移動するだけの怠惰な暮らしに慣れきっていたので、荷物を抱えての階段の上がり下りは、日本帰国前のいいリハビリになっています。

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今日は、ちっちゃなメモを。

私が長年行っている瞑想では、”賞賛(Praise)”というのが最初のテクニックの基本になっています。日本語でも英語でも、大仰な響きがする言葉ですが、実際のところはsimple appreciation、ただ単純に物事を味わう、ということです。

長い間、それは物事を褒める気持ちを持つことだと思い込んでいました。前向きに物事を捉える姿勢=感情を持たなくてはいけないと思って、そんな必要ないと言われても、どこかで前向きな感情を作り出し、盛り上げようと無用な努力をしたりしていました。

そうではなかったんだ、ということは、あるとき自然に示されました。

”ああ・・・”と思いました。

それから時間がたつうちに、日常の中で、意識がいつも触れるものすべてにハッとしていることに気がつきました。

最初は特定のもの・・・自然とか、きれいな景色とか、奇麗な人とかに反応しているのだと思っていたのですが、そうではなく、意識は目にするもの、耳に聞こえるもの、触れるものすべてに、いつも微妙にハッとしているのだ、ということに最近気がつきました。

いつも、すべてにハッとしている・・・
ときめいている、とか言うとちょっとまだ大げさですが、でも、静かに、微妙に・・・ときめくような感じかな。

意識には”お馴染みの物”など存在しないようです。
すべては常に新しく、新鮮で、ハッとするものなんです。

でもそこにはなんら、大げさな感情はありません。フワフワ、いつもハッピーで、なんていうことではありません。

ただ、静かに気づいてハッとして、そうやってすべてを、ただありのままにありがたんでいるのだと、気がつきました。

ジェニファー・マシューズの、すべてのものが「こんにちわ!」と語りかけている、という言葉を思い出しました。すべてのものが語りかけていて、意識はそれに応えている。同じものからできていながら、違う表現をしあっている、そのゲームを一緒に楽しんでいる・・・そんな感じでしょうか。