2015年5月28日木曜日

目を覚ましなさい:アンソニー・デ・メロ

アンソニー・デ・メロという、辛口トークが最高なインド人の神父さんがいました。
以下は私が大好きな彼のトークから、一部抜粋です。

”人は眠りの状態で生まれ、眠ったまま生活し、眠りの中で結婚し、眠りの中で子育てし、まるで目を覚ますことなく、眠りの中で死んでいく。 私たちが人間の存在と呼んでいるものの美しさ、素晴らしさを、決して理解することはない。

去年、スペイン語のテレビ番組で、こんな話を聞きました。

ある人が息子の部屋のドアをノックしました。
「ジェイミー、起きなさい!」

ジェイミーが答えました。
「起きたくないよ、パパ。」

お父さんは怒鳴りました。
「起きなさい、学校に行かなきゃならないだろう!」

ジェイミーは言いました。
「学校なんて行きたくないよ。」

お父さんが聞きました。
「どうしてだ?」

「3つ理由があるんだ。」
とジェイミーが言いました。
「1.つまんない、2.子供達にからかわれる、3.僕は学校が嫌いなんだ。」

それを受けてお父さんが言いました。
「なら、お前が学校に行かなくちゃならない理由を3つ挙げよう。1.それがお前の義務だからだ。2.お前は45歳だからだ。3.お前は校長だからだ。」

起きなさい、目を覚ましなさい!お前はもう大人なんだ。眠ったままでいるには年を取りすぎだ。目を覚ませ!おもちゃで遊ぶのはもうやめにしなさい。

多くの人が幼稚園から抜け出したい、というけど、信じちゃだめだよ。信じちゃだめだ!彼らは壊れたおもちゃを直して欲しいだけなんだ・・・(中略)最も優秀な心理学者ですら言うだろう。人は治療なんて本当は求めてない。痛みを和らげたいだけなんだ。治療は痛みを伴う。起きるのは気分のいいものじゃないんだ。布団の中はいい感じで快適なのに、起こされるのはイラつくもんだ。”



ほんと、いい味出してます。

2015年5月18日月曜日

”私と父は一つである”

『なぜか聖書』シリーズ(笑)。

瞑想教師になるためのトレーニングを受けていたときのことですが、”それ”が何か、はっきりわかったと思った後、混乱に陥りました。2回目の混乱の大きな要因は、本当にわかったなら、”それ”を表現できなくてはならないはずなのに、私には”それ”を表現することなどできない、ということでした。

っていうことは、わかったように思ったけど、実は間違っているんではないか・・・?

早速先生のもとへ走ったわけですが、先生との会話は、だいたい以下のような感じに運びました。

私「わかったと思ったのに、とても表現できないんだけど。」
先生「?・・・ああ!理解を完璧にしようと思ってるのね?」
私「そうじゃなくて(絶対そうだったのに、完全否認 (_ _;))・・・本当にわかったなら、表現できないといけないんでしょう?」
先生「誰がそんなこと言ったの?」
私「だって、昨夜もミーティングでそう言ったじゃない??」
先生「そういう風に聞いた、ってことよね。必ずしもそれがそこで言われたこととは限らないわ。」
私「ムムム・・・(またそういう微妙な切り返しをするんだから・・・)」
先生「”それ”を表現することはできないけど、”それ”であることから表現が起きるというのはあるわよね。」
私「うーん・・・私にとっては、色も形も性質もないもので、とても表現するなんてできないんだけど(頑固)。」

彼女は、そう、表現できるものではないわよね、という深い同意を示した直後に、するすると、”それ”を表現し始めました。

先生「これ・・・そこにある椅子であって、この階段の手すりであって、あの花であるもの。あなたであり、”私”でありながら、私はそれである(I am THAT)というにはあまりにも大きくて、おこがましくすら感じられたりする・・・」


そうよね、表現できないわよね、というふうな同意を示した延長上でスルスルと表現した先生には、いつもながらまったく・・・これなんだから、という、呆れにも似た思いに駆られたりしたのですが(同意を示したということ自体、私の解釈でしかなかったんですけど)、同時に、彼女の表現の美しさに魂が魅了される思いでした。

そしてふいに、聖書の2つの節が意識に上って・・・あるいはどっかから降ってきました。

 I and my father are one 私と父は一つである
My father is greater than I. 父は私より偉大である。

圧倒的な体感をともなう理解がもたらされ、”ああ、私はこれを絶対忘れることはないだろう、もう迷うことはないだろう”、などと思いました。

・・・も、ち、ろ、ん!みなさま、おわかりのように・・・”わかった”、なぞと思う限り、その後もしっかり迷うのですが (⌒▽⌒)

2015年5月15日金曜日

穴が空いたら:『あの方は栄え・・・』part 3

さて、He must increase, I must decrease 第三弾、バーナデット編です(笑)。
(前記事のこれこれを読んでいただくと、助けになるかもしれません。)

バーナデットは人が本質に還る過程の中には、二つの大きな転換点があるといいます。

一つ目はエゴがなくなること。
二つ目は自己がなくなること。

そして彼女は、人間の意識を円に例え、その過程を表現しました。

人の意識の中心には、針の先ほどの穴が開いている。

人の意識は”すべてなるもの”の上に薄くかかったベールのようなものなので、この穴を通して見えるのは当然、すべての生命の背後にあるもの(本当は別に後ろじゃないけど)、すべての存在の源です。無限なるもの、と言ってもいいかな。


なので、この ”穴”、自分の中心(と思われるもの)に意識を集中することによって、人は初めは神の神秘、大いなるものを発見するわけです。

そしてエゴがなくなると、


こんな風にポカッと中心に大穴が開き、ドーナッツ状態になります。

さてここで。。。。


穴が大きくなると、ベールに覆われていたものの見える量が思いっきり増えます。まだそんなに大きくないけれど、針の穴に比べたら、もう否定できないはっきりさです。


かつては何かが起きると、その傷は出口を発見する前に、あちらこちらにさんざんぶち当たっていましたが、


穴が大きくなったので、より素早く、すべてが流れるようになります。

人の意識は常に自分に向かってかがみこんでいるので、


針の穴時代に見えていたのは、”私”という条件付けがほとんどでしたが、ドーナッツになると、


条件付けも見えるけど、”無限のものとしての自分”が、前より遥かにはっきり見えるわけです。

さらに、針の穴時代は、”私”が神を、真理を、悟りを探していましたが、
ドーナッツになると、”私”の意思ではなく、”それ”に突き動かされる形になるといいます。

一度ドーナッツになると、中心から変容の炎が燃えて、”私”を焼いていくようになります。そして穴はどんどん、大きくなります。


やがて”私”がかすかな線になり・・・さらに完全に消滅するまで。


He、すべてなるものは、栄えなくてはならないのではなく、勝手に、自然に、その生命の流れに従って無用なものを焼き尽くすわけですね。

彼女のビデオや本に興味のある方は、こちらをどうぞ(残念ながら英語のみになります)。

2015年5月13日水曜日

『あの方は栄え・・・』part 2

『あの方は栄え、私は衰えなければならない』というのは、ヨハネという個人の、イエスという個人に向けた言葉であるとされています。通常はヨハネの謙虚さが語られるところです。

私は数年前に、この言葉の違う解釈に出会いました。

『一度”それ”に気づいたら、それをじっと見つめ続けるのよ』
と、私の先生は言いました。そしてそれに続けて、

『真なるものが姿をあらわにするには、偽なるものが消えなくてはならない。He must increase, I must decrease - 』

それが聖書の引用であることは、なんとなく察しがついたのですが、言葉のインパクトを実際に感じたのは、それからまたずっと後のことです。

と、いうか、つい最近?(^^)

”私”が消えるほどに、”それ”があらわになる 。

must, ”〜なくてはならない”、という言葉は、個としての自分、”私”が努力することと思わせます。しかし・・・”私”に”私”は消せない、減らせない。無理、無理。

”それ”、あるいは”これ”に到達しよう、とか、それを本当にわかろう、とかする努力のすべてが、逆に”私”を顕在化します。

ほんのささやかな努力も、意思も、 意図も、”私”という緊張を維持します。

と、わかるだけで、どんどんと、どんどんと、ハラハラと、力が抜けていきます。

昔は覚悟すること、というのは、力強く立ち向かうことのように思っていましたが、今の私にある覚悟といえば、”負け続ける”ことへの覚悟しかありません。

わからないままで

”私”がいるままで

どんなことも、それより1秒早くも、1秒遅くも起きなくて

”それ”、”これ”を見つめようとすることすらあきらめて、へなへなと、打たれっぱなしになる・・・

と、

この、なにか、が、圧倒的にそこいら中に満ちているのが。。。


2015年5月8日金曜日

”あの方は栄え、私は衰えねばならない He must increase, I must decrease”

”あの方は栄え、私は衰えねばならない(He must increase, I must decrease)” というのは、バプテスマのヨハネという人の言葉で、イエスに洗礼を施したヨハネが、イエスの出現を祝福して言った言葉とされています(超簡易説明 ^^;)。

えー・・・ちなみに私は、『キャンディ・キャンディ』という漫画に憧れて、中学・高校とキリスト教系の学校に通いましたが、そこでキリスト教に幻滅してしまいました(カソリックに行きたかったのに、それは叶いませんでしたし)。

そして密教に憧れたりもしましたし・・・つまり、特定の宗教、宗派に属してはいません。あ!家族崩壊の危機を救うべく、新興宗教に家族全員で属していた時期があります。

私にとっては宗教というより、関連する諸々の活動(お祭りで大はしごに昇ったり、山で同年代の人たちと集まったり)が楽しかったのですが、夫婦の危機を脱した両親が脱退することを決め、私も”勉強より活動を優先している”ということで、脱退の道連れとなりました(笑)。

しかしどこかで、宗教への興味というものを途絶えることなく持っていました。「本物の宗教とはどれだろう?すべてを結ぶものはないのかな」というのが私の幼少期からの最大の疑問でした。

そうして何十年もたち、ニューエイジからあれこれとはしごして今に至り・・・

宗教が本質的に”指差しているもの”、に気づきました。

一度それに気がついたら、すべてを”逆さ”に見ていたことに気がつきました。

そして、その原点から世界の主要な宗教が指し示そうとしたことを説明する、優れた記述にも多々出会い、新たな発見に深い感動を覚えました。最初にご紹介した聖書の一節も、その一つです。

・・・と、長い前置きと脱線の果てにようやく本文に達するはずのところですが・・・

長くなりすぎるので、本日はここまで。m(_ _)m

2015年5月2日土曜日

会えてよかった、ありがとう


無事アメリカに帰国しました。いやはや、日本は本当に素晴らしかった。

イシャヤのアセンションコースは、兵庫、東京共に参加者に恵まれて素晴らしいコースになりました。参加下さった皆さん、本当にありがとうございました。同じものを見つめる方達と出会うこと、一緒に時間を過ごせることは、この上ない贅沢だな、と実感しました。皆さんそれぞれの物語を聞かせて頂くこともでき、なんとも豊かな経験でした。本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。

それから、昨年トニー・パーソンズのリトリートで名前を聞いて、ブログを発見して以来ずっとファンであった、ヒロさんに会うことができました。お忙しい中時間を割いて下さって、本当にありがとうございましたm(_ _)m。感謝の念につきません。

最後に、日本の優秀な駅員さん達、お店の店員さん達、道を教えてくれた、見知らぬ親切なみなさん、このブログを読まれることはないでしょうけれど、心からお礼を申し上げます。おかげさまで浦島太郎は無事に、豊かな日本滞在を楽しむことができました。本当にありがとうございました。

今日は感謝とお礼まで、です。