2016年2月24日水曜日

高次の意識への興味すら


ここしばらく、”エンライトメント〜パタンジャリのヨガスートラ”という本を読んでいます。最初は翻訳している関係から必要に駆られてだったんですが、結構楽しく、ちらほら読み続けています。

この本は、私のやっている瞑想法を広めたMSIという人による、パタンジャリのヨガスートラの訳で、各章に彼の解釈が載せられています。

この本自体は、イシャヤのアセンション瞑想を習った16年前から持っているのですが、最初は頭ですごい!と思ったものの読み続かず。
英語が面倒くさくて読み続かず。
読書が面倒くさくて読み続かず。
知識を頭が拒否して読めず。
内容がイシャヤのアセンション瞑想の宣伝のようで読み続かず・・・

等々ということが長年続いていました(長すぎるって)。
このまま完読することなく終わるかな、と思っていたのですが、今回は今のところ続いております。

今回、これまでと違うのは、やはり自分自身の経験が変わってみると、同じ本がまったく違うものに見える、という点です。

確かに、イシャヤのアセンションを大宣伝!みたいなところもありますが、大前提としては、”どんな手法であれ、人の意識を条件付けによって限られたものから本来の、最大限に自由な状態に解き放つもの、それを目的とした教え”を総称してアセンションと呼んでいます。

(・・・そもそも、自分のやっていることの宣伝をそんなに嫌がらなくてもいいでしょうに。という話もあるんですが、手前味噌的なものに”あーはいはい”的な反応をしてしまう、という癖が長らくあったもんで。)

ヴェーダやヨガスートラは非常な深さを持つと同時に、非常な誤解を生みやすい、頭でっかちに陥りがちな要素が多々あるように思います。

もちろん、それはヴェーダに限ったことではありません。

2年くらい前、雲黒斎さんのブログにどっぷりはまってたことがあって、特に仏教関連の記事がeye openerという感じで面白く、ブログを通して仏教を学び直した、あるいは新たに出会った(ように思った)経験がありますが、ここでも同じことを感じました。

キリスト教の教えも同じ要素があるように思います。


さて、さんざん前置きが長引きましたが、
今回最初に開いて目に飛び込んできたのは、この章です。


”もっとも高次の意識への、最後のかすかな自己中心的興味すら失うことで、
完全に特徴的な意識が、アセンダント意識から雨雲のような自然の庇護をもたらす”
By loosing even the last vestiges of selfish interest in the highest consciousness, complete discriminative awareness produces from Ascendant Consciousness support of Nature like a raining cloud.


・・・こうやって訳してみると、私のまずい訳も手伝って、解読不能な暗号みたいですね(^^;)。


以下、MSIの解説の一部をご紹介します。


 ”とても面白いことに、”もっとも高次の意識”prasam khyaneは、”意識の最後の中毒”とも正当に訳すことができる。いかなる意識の動きも、完全に純粋な意識ではない。もっとも高次の、優雅な、楽しい、喜ばしい、心地よい、慈悲深い、輝かしい(prasamのまた他の正当な訳)意識の経験も、完全に純粋な意識と同じではない。高次の意識経験においてすら存在する、限られた個人性の最後の名残を失うことによって、特徴的な知識の力のすべてが理解される。これが起きるとき、自然の法は有害(不快)な影響を与えなくなるばかりでなく、その庇護を洪水のように注ぐ。”


解説もまだ、独特の表現が多すぎて暗号のようですね(^^;)。


パタンジャリのヨガスートラは、人の意識が分離から完全な統合に向かう発展の過程を幾つかの段階に分けて、それぞれの特性を描写しています。

ちなみに、抜粋した箇所は、本の最終章、統合意識を描写する章のさらに後半です。

分離を基盤として生きている状態から本質に目覚めていくに従って、人の願望は個人の利や快楽を追い求めることから、ごく自然にだんだんと、生命全体の流れに沿ったものに変わっていく、としています。

自分の本質に目覚め、それが”時折起きる経験”ではなく、生きる上での基盤の意識として確立していくと、この生命すべてを生かしている、本当の立役者は一体誰なのか、どうしても知らずにはいられなくなる、

真なるものを知ることだけが、唯一の願望になる、としています。

しかし、その、最も高尚な願望ですら、”意識の動き”に過ぎす、動いている意識は、どんなに高次で精妙な意識であろうとも、”個”を内包し続けるんですね。

”意識の最後の中毒”final addictions of consciousness
ふーむ、味わい深い(^^)。


意識の発展があるのか、それは段階的な直線的なものなのか、庇護とは、自然の法とは、とか、そういうことは一切置いておいて。


最後の中毒が、そのかすかな名残が失われる時ー


その言葉に引っ張られるに任せて、


その言葉が消え、


意識がうんぬん、という意識が消えるに任せて・・・


ただ、うつろっていく


うつろいすらも消えるのに任せて。


優れた叡智の価値は、頭にとどまること、それをわかること、知識を得ることではなく、それとともにすべての知識が消えること、であるように思います。



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イシャヤのアセンション 東京および長野コースのご案内はこちらから

2016年2月17日水曜日

イシャヤのアセンション 日本でのコース開催のお知らせ

昨年に引き続き、今年も4月に日本でコースを開かせて頂くことになりました。

コースは東京、および長野県軽井沢の2箇所を予定しています。日程、費用等の詳しい情報はこちらをご参照ください。


イシャヤのアセンション瞑想法については、このブログでも何度も紹介させて頂いていますが、なんといってもそのシンプルさ、簡単さはとても大きな魅力です。

また、どんな時にも行える、というのも大きな魅力の一つです。ただ短いフレーズを思い浮かべるだけなので、場所も服装も時間も環境も選びません。

アセンション仲間の一人は、こんなことを言っていました。

”かつて僕にとっては、釣りをしている時間が唯一至福の時だった。日常のすべてを忘れ、すべてのしがらみから自由になって、ただ風と、自然と、水と一緒にある。すべてから自由になって、我を忘れることができる唯一の時間だった。

アセンションに出会ってから、僕は釣りに出かけるまで待たなくていいようになった。心の自由時間は、持ち運び自由となり、旅する必要はなくなった。今も釣りの旅は大好きだけれども、そこに逃げ場を探す必要はなくなった。”


興味がありましたら、ぜひ、上記のウェブサイト、もしくはこのブログのカテゴリーより、”アセンション”をのぞいてみてください。


今年もいろんな方に出会えるのを、心から楽しみにしています。

2016年2月9日火曜日

イシャヤのアセンション

私のやっているイシャヤのアセンションという瞑想法では、アセンション・アチチュードと呼ばれる短いフレーズを使います。

目を開けているときでも、閉じているときでも、ふと意識が戻った拍子、ふと気がついた時に、ただそのフレーズを思い浮かべる。

そして、起きることを起きるままにする


ただ単純にすること、努力もいらない、思い入れもいらない、本当にただ単に思い浮かべること、というのが指南要綱です。

私はかれこれー途中ボイコットしていた時期を含めてー16年ほどやっていますが、続けるほどにシンプルになっていくのがとても不思議な体験です。

”ただ思い浮かべる”

というのは、つまるところ、”ただ生きる”、というのと同義です。

”ただ生きる”、というのは、”起きることを起きるままにする”、以外のなにものでもありません。

もちろん、

起きたことに気づくときには、ものごとはすべて起きている=終わっているわけですから、起きたことを起きたままにする以外、できることなどないのですが(^^)、私たちは、気づいた後に何かをすれば、その前に起きたことを変えられる、といった錯覚をしてたりします。


人間には、思考という贈り物があります。感情という贈り物があります。

それらは泡のように、浮かんでは消えるものですが、私たちにはそれらをつなぎ合わせて、ひとづつきの物語を想像する力が備わっています。


アセンション・アチチュードを思い浮かべるたびに、その鎖が切れ、物語が途切れます。


意識が物語に向かう事で、物語の継続がありますが、それが邪魔される事で、物語の崩壊が起きるわけです。


物語の崩壊が起きると、”ただ生きる”ことがこれまでどおり、ただシンプルに起きます。というか、自然に、ただ起きていることにかぶさっていた物語のベールが取れて、ただ起きていることだけが残ります。

ちょっとすると、また物語りのあぶくが浮かんできます。

気づいたら、またアチチュードを思い浮かべます。

ただ、起きることが起きているだけの、自然な状態があらわになります。


繰り返していると、ただ”生が起きている”状態へのなじみが、どんどん深まっていきます。

起きていることの評論家は、後から訓練して育て上げたもんだったよなぁ、

ということに気づいたりします。


そうすると、”あぶく”への愛着・執着は、ますます自然と消えていきます。

そして、この過程に一番不要なのが、”努力”であることにも気づきます。


日常生活の真っ只中で、ただ思い浮かべる。


目を閉じて休む時間を設けて、ゆったり横になったり座ったりして、意識がアチチュードと思考と気づきの間を行ったり来たりするのに任せる。


そんな生活を続けるうち、瞑想という修行ーあるいは私が悟るための手段から、それ自体がただ起きていること、生きていることの自然な一部へと変容しました。もちろん、時にはしっかり力んで、努力したりなんかもしながら。


気がつくと、なにか理由があるわけでもない喜び、なにかにもとづくわけではない感謝の気持ちが圧倒的に増えていました。

そして全ての行動を支配していた恐れが、自然と果てしなく減っていました。


この瞑想法に出会ったことに、感謝しています。