2016年5月25日水曜日

不安と、パターンと、祈りと


2016年、イシャヤのアセンション教師養成コースが始まりました。
、、、実はもう、3週間ほど経ってますが。


スタッフとして初日に皆を迎え、最初の週のサポートに参加しました。
これから6ヶ月、慣れた生活を離れるわけですから、皆、不安を抱えてやってきます。

不安が最高潮になると、それぞれ個人のパターンが前面に出ます。

無意識かつ自然に、それぞれのサバイバル手法が不安への対処法として
駆使されるわけです。


人の気をひくこと、注目を集めることに全力を注ぐ人。

自分の殻にこもる人、

ひたすら話し相手を見つけ、自分の物語を語り続ける人、

グループを仕切ろうとする人、

恐怖に縮み上がって髪の毛ばかりいじってる人、

馴染みの人のそばから離れない人、

などなど。。。



3週目までには、古いパターンに基づくドラマが早くも展開され始めます。

恋愛ごっこ、
批判ごっこ、
文句ごっこ、

もろもろ。。。。


そしてそれらの底辺に、見えないあたり中に、とてつもない静けさが満ちています。


常時30人以上の人が一箇所に集って”それ”に目を向け続ける・・・

自分を捨て続ける・・・

あるいは、祈り続けている、と言ってもいいですが、


そんなことが起きている場には、なんだかとてつもない力と、美しさがあります。

みんなはまだ気づいてないようだけれど。


そりゃそう。参加者のお仕事は、鍋で煮られることだから(^^)。

ぐつぐつ、
ぐつぐつ、、、



さて、誰が最初に自分を捨て切るのかな。


来週からまた、ご奉公に出かけます。


楽しみです。

2016年5月1日日曜日

マヤ 

ジェッド・マッケナという人の本の中で、彼がマヤと話をする、美しい場面があります。

マヤというのは、サンスクリッド語で、私たちの思うところの現実世界を表します。

私たちの思うところの・・・
つまり、真理と呼ばれるものの上にかぶった、薄いベールのような幻想世界のことです。

マヤの作り出す世界(この世界のすべて)はとてもは巧妙で、抜けたと思ってもすぐに絡め取られてしまう、

その美しいマヤとジェッドの、幻想に満ちた無言の会話。
なんとも魅惑的であったのを覚えています。


さて、そのマヤが剥がれるときーーー

これまで何の疑問もなく信じていた、
信じていると気づく隙すらなく反応していた現実に気づきがおとづれ、
はらり、とそれが剥がれると、、、

”人”の終わりがやってくるのが見えます。

そしてそこには、なんの例外もないことがわかります。
好みの思考は残して、苦しかったものだけ手放される、

なんてことはありません。

落ちるときはすべて、例外なく、容赦なくおちます。
しかもそれは芽が吹くように、花が咲くように、
まったく勝手に起きることで、何ものにも操作の余地はありません。

そんな可能性はまったくありません。

それが静かに訪れるのを、静かにハッとしながら見ています。
驚くほど静かで、劇的なものは一切ありません。


人の意識には、大きく大別して、眠っている状態、起きている状態、
夢見ている状態という3つの状態がありますが、

起きている時にも、かなりの時間を夢見て過ごしていることに気づきます。


マヤから離れると、生命の現実に隙間なく寄り添うことが起きます。
それはとどめることも、味わう余裕も、観察する隙間もない脈動する出来事です。

どこに向かっているのか、何が起きているのかなんて疑問は、
一切の価値を失います。

生命は、ただばくばくと、脈打ち、生きます。