2017年12月20日水曜日

虚空


”意識を越えようとするのではない。存在とは何か、ただ認識し、理解すればいいだけだ。”

”存在、意識、が神であり、生命の躍動とマインドの働きを観照する。それは干渉せず、ただ観照する。”

ニサルガダッタ・マハラジ

(観照とは何か、については、OSHOの言葉を引用しているこのブログがお勧めです。)

*****


なにもない虚空にしか見えないものに、ただ視線を置き続ける、というのはなかなかできることではありません。

しかもそれを常に行う、というのは並大抵なことではできません。

生命は動きですし、刻々と変わり続けるマインド / 思考の多様性、感情の上がり下がり、種々の身体・直感等の感覚は、味わい深く楽しいものです。真正直に観察するなら、私たちは苦しみや惨めさすら味わい、楽しんでいることに気づくでしょう。

生きることの醍醐味は、この飽くことない変化と多様性だと言っても過言ではありません。

それでもその楽しみのすべてを捨てて、それを味わっている本体はなんなのか、生命と呼ばれているものの本源なり、私というものの正体なりを突き止めようと思っちゃったりする人がいるわけです。

あなたが運悪く(あるいは運よく)、そんな人の一人だった場合、好むと好まざるとに関わらず、どこかでそちらに目が向くことになります。

求めているものが虚空のようにしか見えないことを、最初から認識して取り組んでいる人は稀でしょう。

エゴをおおむね卒業し、不安定なマインドに成熟が訪れるまで、様々なダンジョンを通って変化=経験をいくつも味わい、追い続け、楽しむことになります。

途中にはなんども真の目覚めがありますが、そこに目を据え続けることができる人は、これもまた稀です。

真の目覚めの反映である経験、どんな結果が得られたか、人になにを話せるか、に大抵は一瞬で心を奪われ、同じゲームの次のステージを目指します。

やがてどこかで運よく成熟が訪れた場合、すべてのゲームを完全放棄する決意が、どうしようもなくやってきます。

きっぱりと。

しかしこのきっぱりとした決意・覚悟の後ですら、マインドは揺らぎを止めることはありません。

でも正しい場所に視線を据え置き続けるなら、マインドの揺らぎをただ観照するようになります。

その動きと、不安定な性質をすっと認識するだけ。

そういう、本当にニュートラルな土壌にただあること、ニュートラルな土壌であることにだんだんと馴染みが育って行き、なお目を向け続けるようになる頃には、視線の発信源がないことがはっきりしています。

目を向けている元は限りない場そのものであり、特定できない。
目とは呼べない目が認識している対象、あたり中に常に広がるものもまた、特定できない。

五感でも、六感を通してでもなく知っているものを眺め、確かめ、研究し、そのつかめなさに身を任せていると、ふいに、

あ、

という瞬間があります。


あ、そっちが自分だ。


完全に疑いようのない、本体と知識の合体・一致があります。

天国の鐘がなることもありませんし、天使が舞い降りたり、いなづまが走ったりすることはありません。
恍惚もありません。

むしろあっけない、非常にそっけない、

なんだ、そっか。

というくらいのものです。

翌朝・翌日にはむしろ、それを特別化しようとするマインドの猛攻撃にあって、あのあっさりとした、しかし疑いようもなかった認識がどこかに消えてしまったような、なくなってしまったような気すらするでしょう。

ここであっという間にやめたはずのゲームのダンジョンに戻るか、淡々と目を向け続けるか、どちらが起きるかはその地点でのマインドの成熟度によります。

あなたの中の馴染みが強く育っていた場合、どんなに頭の中や心の中が沸き立っても、全く新しくまた目を向け続けるーわかる、わからない、といった思考に惑わされず、ただ目を据え続けることになります。

静けさに、どうしようもなく惹かれ続けることになります。

それだけをまっすぐ示してくれるものを察知して、それを指標にしつつ、ただ目を向け続けることになります。

恐れを超えて、自分のすべてが飲み込まれるままになります。

2017年12月18日月曜日

確認する


散歩中に、雲ひとつない真っ青な空を手や指で切り取って眺めます。
なにもない、ただの青


視界に奥深く広がるなにもなさに、それを眺めている側が同調し、思考を紡ごうとする動きが停止します。

からっぽさだけがそこにあります

首の疲れを感じた体が自然に頭の位置を戻し、目線が元の高さに戻ると、青と共にあった透明なものが、空からそのまま目の前まで、途切れることなくあるのがはっきりします。
それはあたり中にあります。


”すごい、これ。思考止まったわ。家に帰ったら座ってもっとしっかり眺めよう”とか、
”毎日やって見よう”とか、
”昔は空をよく眺めたよなぁ”とか、
いろんなコメントが沸いては去るままにします。


会話に参加する代わりに、なにを通してそれを認識しているのか、身体感覚のひとつ一つをじっくり確認します。
匂いはあるか
触れることはできるか
目に見えているのか
聞こえるのか
味はあるのか

結果を見ようと素早くチャチャっと片付けるのでなく、本当にしっかりと確認するなら、おそらくたった一つの感覚を1秒試しただけで”世界”が消えます。

次の瞬間、
”怖い”とか、
”すごい”とか、
”なんだったんだ”とか、
”なんだ、なんでもないじゃん”
”なにも起きないじゃん”
といろんな感想が湧いたり、
ただびっくりしたり、がっかりしたり、
”ふん”と鼻で笑ったり ー すべて起きて去るままにします。

感想を感想文に広げず、意見に賛同も反対もせず、
起きたことを反芻せず、対応しようとせず、
自分にどういう影響が出ているか探そうとせず、

ただ、なにを通してそれを”知って”いるのか見てみます。


なにも特別なことなどない、淡々とした作業です。


ただなんども、なんども、試しに”自分で”確認してみるだけです。

2017年12月2日土曜日

科学の視点から現実を見ると、、、

11月27日、バーナデット・ロバーツが亡くなりました。
ちょうど毎日彼女のビデオを勉強していたところで、彼女の死の翌日舞い込んできた訃報は、私にとって大きなショックでした。

彼女は生涯、研ぎ澄まされた目を持って”それ”を見つめ続け、あらゆる宗教的文献を勉強し続け、自分の経験を記録し続けました。彼女の著作は非常に密度の高いものばかりです。

もう一度会いたかった、という思いと、彼女が残した軌跡への深い感謝を日々感じています。

日本語に訳されているものは下記にリンクを記しますが、自費出版された本やビデオは、彼女のサイトからのみの購入となります。リンク(すべて英語。印刷できる記事も2つほどあります。)

バーナデットはもともとカトリックの修道女だった人なので、キリスト教を枠組みにした話が多く、キリスト教の話をしているような印象を与えることも多いのですが、唯一なるものを見つめ続けたのであって、神父でも宣教師でもありません。反キリスト教の印象を与えることすらあります。

「’神’という言葉は本当は使いたくないのよね。」などという発言がポロリとこぼれることもあります。当然と言えば当然ですが、ニサルガダッタ・マハラジを読んでいると、まったく同じことを言っていることも多々あり、おおっ、そりゃそうだよね、などと思ったりします。

うちなる静けさ、あるいは外、自然の中にある静けさを経験から実感している方々は、自分の経験をより明晰に描写するものとして、味わえるかもしれません。

******

さて、私は科学や物理学に精通しているわけではありません。が、科学の視線から描写される現実や意識の研究の話を聞くのが結構好きです。

自分が現実と思っていることが、実際には架空のものである、ということを科学の視点から聞くと、なかなか”おおっ!”という感じのものがあります。

そして意識に関する、生命に関する真摯な研究がみな、知ったかぶりせず、”わからない”というところに帰着しているのも好きです。

日本語字幕のものがほとんどなかったのですが、日本人の方のビデオで楽しめたものを二つほどご紹介します。

興味があったら以下どうぞ。








2017年10月26日木曜日

What do you yearn for? ーあなたが本当に求めているのは何か 

Do you want to defend your position or do you want to see the world as clearly as possible?
自分の立ち位置を守りたいか、それとも世界を可能な限りはっきり見たいのか?
(アディヤだったかな・・・誰だったかな^^;)


6ヶ月に及ぶ饗宴、教師養成コースがひとまず終了しました。

と言っても6ヶ月で自動的に教師になるのではないこのコース、今後も場所を変えて継続していくようですが、私はひとまずコースを離れ、自分の生活に戻っています。

あちらにサポートに行っていると、ボルテックスに入っているかのように、時間の流れも世界も特殊で、何がそんなに忙しいのかわからないままに忙しく、そこ以外のことがすっかりおざなりになってしまうので、ないがしろにしてきた家の諸々にせっせと対応しているところです。


今回も学ぶことが多かったなぁ。


23人もの参加者が、6ヶ月も普通の生活を投げ打ってやってくるわけですし、それまでの人生をすべて持ち込んでくるわけですから、とんでもなく濃厚な時間となります。

みんなとーっても大きな”私”というアイデアと、世界に関する、コースに関する、この瞑想に関する、悟りに関する、食べ物に関する、癒しに関する、体に関する・・・と、すべてに関する様々なアイデアを持ってやってきます。

もちろん、”私”に関するアイデアは、その人だけのものではありません。その人の周囲の人みんなが関わって、支え合って”私”が形成され、維持されるわけですから、直接的・間接的に、周囲の人もコースに参加しているわけです。

生きてる方も、亡くなっている方も。

もちろん、それは養成コース生だけでなく、リトリートに来る人、サポートに来る教師についても同じです。常時38〜46人が、逃げ場もなくひしめき合って”自分”を崩し続けるのですから、強烈でないわけがないですね。

で、6ヶ月、何をしているのか。

要は集中的な自己解体です。アセンション、という手法を通して自分のパターンを邪魔し続ける。パターンが邪魔されると自然にそこに現れるものに馴染みを深める。

そんな過程です。

当然、楽なことなどありません。本当にみんなよく頑張ったなぁ、という思いと、みなの変化に感嘆の思いがわかずには入られません。

でもこれは新しい生き方の基盤をちょっと作ってみました、と言うだけで、終わりというよりは始まりでしかありません。自分の経験を振り返っても、ハイハイが始まっただけでよちよち歩きすらまだできていなかったと思います。

これから外の世界に帰って、本当に大切な一歩が始まります。

”自分が本当に求めているものは何か”という問いを、人生のすべてのものごとが、毎瞬間私たちに突きつけます。

”私”とその立ち位置(同じものです)を守りたいのか、
それとも世界をはっきりと、本当にありのままに明晰に見、経験したいのか。

創造から破壊まで、生命が脈動する様をただ見る、直接体験することは、”私”にはできません。
同意すること、否定すること、賛成すること、反対すること、信じること、疑うこととはまったく関係ない、相容れないあり方です。

世界をはっきりみたかったら、”私”を捨て続けることになります。

教師になったから、教師として成功しようとか、いい先生になろうとか、いい人であろうとか、自分のスピリッチュアリティをさらに深めよう/高めようとかいったことは、どんなに見かけや響きが良いものでも”私”の確立に関わる話なので、いわばまったく逆の選択になります。

”私”の動きが完全に止まるまで、幻想の旅と選択は続きます。

2017年10月1日日曜日

アディヤ・シャンティ


『少しずつ、それは自体を顕(あらわ)にし始める。 僕は、僕たちのスピリチュアルな変性には、’目覚め’あるいは’悟り’などといった到達点などないのだ、ということに気づき始めた。終着点はない。スピリチュアルに目覚める、あるいは悟るということは実際、他の動きが起きることーそしてまた別の、また別の、また別の動きが起きるのを許すことだ。スピリチュアルな目覚めは、全く新しいスピリットの動きが起こり始める地盤であり、そしてその、僕たち自身の自由の感覚から生まれる新しい動きこそ、僕が’真の自律性への目覚め’と呼ぶものである。』

『実際、悟りは意識の別の動きを可能にする。この意識の別の動きは、僕たちの人間性(人間味)から目覚める、時間と空間から目覚める、個人としてのアイデンティティから目覚める、というようなことではない。それはほぼ真逆で、スピリットが形に入り、この真の自律性を発見するのだ。』
~ アディヤシャンティ

2017年8月10日木曜日

つくしさんへの返事

ブログを書ける時間がないままにまたもや1ヶ月以上立ってしまいました。
今日は取り急ぎ、質問を頂いた、つくしさんへのお返事を書きたいと思います。

*********************************

つくしさん、

時間が立ってしまってごめんなさい。
今日はどこまで書けるかわかりませんが、一部だけでもつくしさんの
質問にお答えしたいと思います。

アセンションとはなんでしょうか?

瞑想あるいは祈りのテクニックとよく言われます。
そうすると、瞑想とは何か、祈りとは何か、に話をまず戻さなくては
ならないかと思いますが。笑

コースを教える時によく話すのですが、私はただ”瞑想”と呼ばれるものに
飛びついて、しがみつくこと長年、瞑想が一体なんなのか、考えてみた
こともなかったのにある時気がつきました。

急いでグーグルに聞いてみました。
運のいいことに、グーグルはとてもいい答えを探してくれました。

”瞑想とはすなわち本来の自分であること”

大感激、大満足でした。
トニー・パーソンズが同じことを言っていたな、と思い出しました。
(聞いた当時はなんのことかさっぱりわかりませんでしたが。)

瞑想とは、すなわち本来の自分であること。
だから特定の姿勢をとって、特定のことをしている時だけが瞑想、
というのはありえない。

じゃぁ、今と何が違うのか。何もしなくてもいいじゃん、
となるわけですが、

これは”自分”をなんだと思っているのか、という視線・認識の話になるわけです。
理論ではなく、受け売りではなく、日常の当たり前の認識として、自分を
何と捉えて生きているのか。

自分というのはパーソナリティか。
職業や社会的役割か。
性別や年齢が特定するものか。
今やっていること、これまでにやってきたことが形作るものか。
記憶の集まりか。

そのすべてが起きるのを可能にし、ただ見つめているものか。
さらには、見つめることを可能にしているものか。


自動操作になっているすべてを止めて、それを見つめてみるのが”意図的に”設けられた、
言い換えると、目を閉じての瞑想の時間だと思います。

さらに、目を開けて日常生活の中で、それを確認し続けること、それが目を開けての
瞑想だと思います。

(ダグラス・ハーディングが言っていたように、自分を知るための方法は、
いつでもどこでも、常に行えるものでなくてはならない、というのは本当だと思います。)


そして大切なすべての大前提は、瞑想は”それ”を起こさない、ということです。

私たちが瞑想をしようがしまいが、”それ”はまったく影響されません。
増えもしません。
減りもしません。
強くもなりません。
弱まりもしません。

私がアセンションしようがしまいが、”それ”にはまったく影響ありません。

その上で、

自分はパーソナリティだと信じて、その嘘の行き詰まりに苦しんでいる時、
あれやこれやの信念(こうあるべきだ、こうするべきだ)が息を吸えなくしている時、
あるいは、どうしようもない探求の衝動が自分の中に組み込まれてしまっている時、
ある種の瞑想はとても大きな助けになります。


アセンションは外に向いている視線を内に向け戻す、非常にシンプルな瞑想法です。
あるいは、自分の思考パータンを邪魔する、パターンに切れ目を入れるメソッドです。
日常の中で、非常にニュートラルな、非個人的な思考を通常の思考と交互に思い浮かべます。それだけです。

本来の自分に戻るのに、何か新しいものを足す必要はあるわけがありません。
ただ、無用に足された条件・パターン・自動操作を一瞬でも止めること、目の前にかかっている幕を一瞬取り去ることで、もともとそこにあるものを思い出します。

目を開けて、目を閉じてそれを繰り返すことで、本来の自然なあり方がよりしっかりと思い出され、それに馴染んでいく、というのがアセンションです。


と、今日はこんなところで。
すべての質問に答えられていませんが、またおいおい、書かせて頂きます。

ではでは。

2017年6月28日水曜日

間違ったものを見出せない

私の師、カーリーは、出会った頃は強烈な人でした。
鋭さと容赦のなさ、触ったら切れそうなギリギリの感じがありました。

それは彼女があまりにも真剣だったためだと思います。

16年の中で、様々な我が師の変化を見つめることになりましたが、
ここ数年は特に、すべてのものの、あるがままの完璧さを見ている=どんなものにも間違いを見出していない、ということに気がつきます。

ジェッド・マッケナが”僕は完璧な宇宙に住んでいる”と言いましたが、我が師もそれを完全に体現しています。


同時に、ものすごく文句を言ってるように見える時もあります。笑


ある共通の友人について、”カーリーが痛烈に彼女を批判し”、聞いていた私はだんだん居心地悪くなっていきました。二人の間に挟まれているような気持ちになった私の、居心地悪さが頂点に達した頃、ふいに、
”今私は、彼女の何かが間違っていると言ってるように響いていることを
よく承知しているけど、まったくそうは思ってないのよ。”
という言葉がカーリーの口から飛び出しました。自己弁護でもない、自分の説明でもない、彼女の話から途切れることもなく続いたその言葉は、まるで他の機械の解説をしているようでした。

おかしな経験でした。

******

何かがこうあるべきだ、こうでなければ間違っている、
という観念がない人の口から出る言葉は真実に満ちています。

空気のようにニュートラルな観点は、事実だけをシンプルに指摘します。それはスピリッチュアルとか呼ばれる分野特有の話ではありません。

数ヶ月前に4人の移民弁護士さんと関わる機会があって、それを体験しました。
領事館からVISA申請に関して追加資料を求められ、申請が却下される可能性もある繊細な状況だったので、弁護士さんに助けを求めました。

最初の3人の弁護士さんは、皆、過去の経験に基づく”自分の角度”を持っていました。なので質問と関係ないアドバイスが多く、必要な情報を受け取るのに、なんども質問を繰り返さなくてはなりませんでした。

また、弁護士さんは職業柄、情報が命ですから、どれくらいの情報をこの料金の中で渡すべきか、いつも頭の中で計算しているのが見て取れ、ここでもしつこく質問を繰り返さなくてはなりませんでした。

それはこれまで何年か、何人かの弁護士さんと仕事をしてきた私の印象通りで、チャレンジではありましたが、特に驚くことではありませんでした。
むしろ驚いたのは、4人目の弁護士さんです。


4人目の弁護士さんは空気のような人でした。

非常な無理を押し通したのに、会った時にはまるで、そういうことは記憶のどこにも止っていない様子でした。持ってきた資料をすべて読んでくれたのも、この弁護士さんが初めてでした。

すべての情報を空気のように吸い上げたあと、”私にどんなお手伝いができますか?” と聞いてくれました。そこにはどんな方向や意見をも押し付けることがない、完全なオープンさがありました。

私は指定の時間内・料金内で、最大限の情報を得、無用な情報を削ぎ落とすことができました。

最後に弁護士さんは、”助けになりましたか?”と聞きました。
”あー、さすがに自己評価は求めるのね”と思ったら、勘違い。本当に役にたったのかどうか、という事実確認だけで、賞賛を求めているのでも、自己評価を求めているのでもありませんでした。


この弁護士さんは、私に相当なインパクトを残しました。
どこにもひっかかりのない、果てしなくニュートラルなあり方と、そこから出てくる適切で曇りのない情報。この人のあり方は、本当の意味で人に仕えていると思いました。

こんなあり方からなされる仕事は、それが書くことでも、マッサージでも、料理でも、セールスでも、本当の意味で人の役に立つ、と思いました。

以来なんどもなんども、感情や意見が活発になって彩りを加えそうになると、この弁護士さんのことを思い出しています。

2017年5月26日金曜日

自分にたぐり寄せる

”バガヴァッド・ギータはアージュナの物語ではない。私たちの物語だ。”
ジェッド・マッケナ

”何かを読んでも、見ても、それが自分にとってどうなのか考えてみないのなら意味がない”というジェッドの言葉を、ふんふん、と”観客”として大いに賛同しながら読んだことを思い出します。

ジェッドの本はかなり辛辣で、皮肉やナルシシズムの響きが強く感じられる本なのですが、自分はジェッドと同じ”あちら側”に立っていて、ジェッドが話しかけている観客、”向こう”を彼と一緒に眺めているつもりでいました。

ははは。絶大な無知のなせる技。(^^)/

それは実際、ジェッドの本に限ったことではなく、アディヤの本でも、ニサルガダッタの本でも、映画でも、たいていは同じ立ち位置をとっていました。

バイロン・ケイティのワークを手にとった時も、CDを聞いたり、ビデオを見て感情移入は散々しても、ケイティに”同意”は散々しても、自分でペンを手にとってやってみるまで、自分に向かうまでには何ヶ月もかかりました。

今読み返すと、”これのどこをわかったつもりでいたんだろう?”と仰天することが多いです。無知の特典は自分はわかっている、と思うことですから、まぁ、避けようのなかったことですが。

”本当にわかっているのか?自分の経験ではどうか?”と、出会った言葉、インスピレーション、感銘とともに沈思、黙想、瞑想する時、真に自分にたぐり寄せる時、痛みを伴うような共感が湧くこともありますし、さらに深い洞察を得る瞬間もあります。

でもそこで止まらずに、さらに”自分”にたぐり寄せると、、、、

個としての”私”の共感、理解、洞察、さらなる質問といったすべてが消えます。

・・・・この神秘っぽい、思わしげな、何か特別なことがありそうな響きは嫌いなんですが、、、私の能力不足。

次に起きるのは、恍惚の波に襲われて公園のベンチに一年座ってた、
とかそんな極端なことじゃなくて、ふと気づくと、トイレに向かってるとか、ご飯食べる準備してるとか、そんな普通に”生きること”です。

隙間なく、行為が起きる、あるいは起きない。

いずれにしても散漫に観客として生きる中で、”夢”から覚めることはない。

********

今年の教師養成コースが始まって、はや1ヶ月と1週間たちました。
去年のブログを読んでくださった方には、毎年あるイベントのように映るかもしれないのですが、トレーニングは不定期です。

たまたまたくさんの人が希望したので、一度にはできない、ということで二年に分割されましたが、最初に今年のコースを希望していた19人の人が最終的に参加できず、別の23人が参加する結果になりました。いつもながら蓋を開けるまで誰が参加するのかわかりません。

今年のグループはとても成熟している、大人なグループの感じがあります。今年は海外からの参加者が4人いて、さらに豊かな感じです。

10年以上前に参加するはずだったのが、今年来る結果になった人、コースが始まってから唐突に家を売り、車を売り、すべてを売り払ってコースに来る結果になった人もいます。

どうやっても観客でいることのできない環境を選んでやってきた皆に、深い敬意を表します。深い愛情、感謝の念と、痛いくらいの生々しい生に満ちたこの環境に今年もいられることに、深い感謝が湧いています。

2017年4月6日木曜日

在る




「もし、あなたの生涯で唯一の祈りが『ありがとう』であるなら、それで十分である」
ーマイスター・エクハルト



「これ、や あれ、に感謝しているのではありません。感謝しているのです。」
ーバイロン・ケイティ





2017年3月25日土曜日

分析の無用性



くるくると、人生の周り灯篭は周り続け、私たちは同じ経験をちょっとずつ違ったシナリオで眺め続けます。

例えば、
知っているという誇りは
間違っていたという羞恥心に揺れ戻り、
人を責める気持ちは
自分を責める気持ちに揺れ戻る、
などなど。。。

それは、
行ったり、来たり、2極の間を揺れ続けるようであり、
らせん階段を登り下り続けるようであり。

例えばアセンションをすると(気づきが”それ”に返ると)、この回り続ける輪が一瞬で壊れてすべて消えてしまいますが

そこで一抹の不安がよぎることがあります。

”本当に手放していいのか?”
”どうしてこのパターンを繰り返すのか、また戻ってこないよう、根本まで突き詰めて見つめ直した方がいいのでは?”

根本まで突き詰めることにはとても意味があるように感じられます。
ただ手放すことは無責任な気がしたり、本当にそれでいいのか、という恐れの反応が湧いたりします。

感覚が湧いているのはどこなのか。
感覚が湧いているのはなぜなのか。
このパターンは何を意味しているのか。

これらの追求はとても意味や意義があるように感じられます。
瞑想して集中するのもそうですが、何か生産性を感じられます。
何か達成していっているような、どこかに向かっている感じがします。
”何かしている”ような感じがします。

でも達成感や進歩感、意味、意義を求める限り、楽しむ限り、
私の再形成、という蟻地獄から出ることはありません。

ジェッド・マッケナは、
”戦わなくてはならない時は戦い、登れる限り登れ”
と言います。

人生を手にとって見ることなく、無意識に生きるのは、
下水の中にいるようなものだと彼は表現します。
それが臭くないならそれでいい。問題などあるわけない。
でもこの嘘の匂いが耐えられないのなら、そこから全力で出ろ、
と彼は言います。

夢の世界は楽しいのだから、誰にもそこから出ろなんて言う気はない。
でもその嘘に耐えられないのなら・・・
楽しい夢のすべてを捨てて、そこから出るしかない。

そしてそこから出るのが目標なら、
下水の中に幻の怪獣を見つけるたびにやっつけに戻るのではなく、
ただひたすら上に登れ、
と彼は言います。

どうしても戦わなくてはならないなら戦え、だが登れる限り登れ

”いやぁ、でも戦いなんてないし、究極のところ何も起こっていないわけだから”
”どこかに向かっているなんて幻想だし”
と、かるーく”知ってる人”、”わかってる人”の立ち位置が反射的に湧くとか、

”ふんふん、そりゃそうだよねー”
”あー、なるほどー。わかる、わかる”
なんていう軽い同意で終わるのではなく、

それが疑いない事実、現実となるまでは、
この助言は有効だと思います。

回る絵にくっついて、人生のドラマのメリーゴーランドに乗る事が減っても、
”傍観者”という新たな”私”がすかさず構築されます。
”前ほどドラマに飲み込まれなくなった自分”という新たな立ち位置は、
進歩感を伴う、正当化しやすい”私”の強化です。

回り灯篭のいかなる絵にも
感情という名の糊で”自分”を貼り続けることなく
勝利や進歩が、常に消えるがままに手放し続けるー

どこにも、なにも、向かう者などないままに。

2017年2月28日火曜日

五蘊 / ”私”の科学

バーナデット・ロバーツは、

”ものごとの渦中にある時は、それが何であるのか理解することはできない。
失ったとき、過ぎ去ったときに振り返って初めて、理解することができる。”

ということを言います。

エゴを機能基盤として生きているときに、エゴが何か、
その特性や働きを理解することはできない、

自己という感覚の中で生きているときに、自己とは何か、
その特性や働きを理解することはできない、

と繰り返し主張します。


彼女は、”自己を完全に失う”という経験が起きたのち、自分に起きたことを理解しようとして、手当たり次第の文献を手に取って勉強しました。

その中の一つが仏教の教えですが、その中で自己、”私”の構成を描写した
五蘊を目にしたとき、最初は”正確な描写であるけれど、これも違う!”
と放り出しました。

その後ふと、
「”私”を構成している要素を正確に描写するのは、自己を超えないと不可能」
ということに気がつき、これを書いた人は自己の喪失を経験したに違いない、と
気づくに至ったそうです。

彼女は、
”仏教の教えの中で最大の価値があるのは五蘊だ。それ以外は知る必要ない”
とまで言っています。

このあたりはとてもバーナデットらしいのですが・・・


それはさておき、

最近この部分がまた気になって再読し、そこから五蘊について調べてみたところ、
ウェブですごくいい記事をいくつか見つけました。

これこれ

特に2番目の記事、ベストアンサーに選ばれたjojon_folkさんの回答には、そのさらりとした深みにびっくりしました。だって、yahoo知恵袋ですよ!仏教サイトでもブログでもない。笑

アマゾンのレビューなどで、たまに書いている人の経験や智慧の深さにびっくりすることがありますが、こういう風に何者でもなく、ただ深い智慧とともに生きている人というのが、いつでもどこかにいるんだよなぁ、と深く感じ入りました(蓋を開けたらどこかの有名な人とか、先生とかだったりするかもしれないけど。笑)

”実体とは、そのものの主体であり、常にあり、そして他に依らずそれ自体であるもののことです。見られたもの(客体)、生じたり滅したりするもの(無常)、縁起に依るものを実体とは呼びません。・・・・・(略)・・・・・

五蘊を空と観ることは、深い思惟によって得ることができます。分かるというよりも、気づくという体験です。気にしていれば、気づく時がきます。

合掌” yahoo知恵袋より抜粋


溶けました。


英語で読む仏教はすっきりして論理的でとても好きなのですが、
日本語で書かれた、深い智慧を含む記事に当たると、この深さは英語では伝えられていないのによく気づきます。般若心経はいい例ですが、今回みたいな記事に出会う時、日本人でよかった、日本語が読めてよかったぁ、と深い感謝が湧きます。


最初の記事は仏教サイトのよく名の知れた長老の記事ですが、私は、この方の仏教の定義が好きです(これは五蘊とは別のページ)。

仏教は科学であり、概念でも信仰でもない。
誰にとってもいつの時代も何によっても変わるはずのない真理を、
自分で手にとって実験して体験により確認するためのものである、


というのが、私が理解した内容の要約です。


良い記事に出会いました。

********

しばらく前からナショナル・ジオグラフィックの「ブレイン・ゲーム」という番組にはまっています。

”私にとっての真実”がいかに現実と一致しない、あてにならないものであるかを、科学の観点から説明しているのですが、ゲームとともに実体験で”私の感覚”のあてにならさを見ていくのは、なかなかショッキングで目が覚める感じです。

日本のNetflixにあるかな?おすすめします。


2017年2月19日日曜日

確認


”おそらく、この在り方を最もよく表す言葉は’強さ’です。継続的で、受身的な感じの、中心にある内的な強さです。” 
– バーナデット・ロバーツ「The Path to No-Self」





ここチャタヌがは、冬をほとんど飛び越して、春になってしまったような感じです。

今年は年明けからすごい嵐が続いています。

新大統領就任にまつわる嵐もそうですし、

個人的にも、ここ何年もなかったような大嵐が家族内で起きています。
(記憶がどんどん曖昧になっていくので、多分、ここ何年でなかった大きな出来事だと思う、というのが現状ではありますが (^^;) )

こういう時に、なにが”現実”なのかをチェックしてみることは、
私にとってはとても大切なことです。

例えば頭の中で ”これはこうでとんでもない!”とか、
”それは嫌!” とかいう思考が湧いて、
それがしつこかったり、音量が異常に大きかったりしたら、


やってることのすべてを止めます。


頭の中の嵐と、目の前の花の静けさと。
その両方を等しく可能にしているものを
ちょっと見てみます。
どちらを存在させているのも、
どちらに存在する力を与えているのも
まったく同じものであること
を見てみます。新たに発見します。

ふと意識がそれると、次の瞬間注意がまたそこに引き戻されるまで、
嵐は存在もしていないこと、
を確認します。新たに発見します。

例えば体の中に緊急感を伴うセンセーションが湧いて、
それに伴って”これをすべきよ!” という思考がわいたから

その衝動に従って即行動、というのはまずありません。

この感覚には異常な説得力があり、”今すぐ”何かをしなくてはいけない、
”今がその時なんだ”、と訴えます。

今すぐやらないといけない、今言わないといけない、
外しちゃいけない、逃しちゃいけない。。。。

それは例えば誰かを助けなくてはいけない、
教えてあげないといけない、
何かしてあげなくちゃいけない、

という思いの時もありますし、
逆に、できない、いやだ、
と言った後の罪悪感の逆風の場合もあります。
(できない、いやだ、自体には苦しみはありません。)

私はマインドが「できない」と言いたいとき、
本当にできないのか、「したくない」だけなのか、
しぶとく自分の中で確認し(多くの場合、私の中の”できない”、は”したくない”、
の綺麗なごまかし表現だったりするので)、
”したくない”が本当の場合はそれをはっきり伝えるようにするので、
その後の罪悪感の逆風も強烈だったりします。
(繰り返しーしたくない、には痛みはありません。その後の余波は
注意を奪われると苦しみに満ちています。)

その強烈な不快感から逃れるために、”何かをしたい思い”が、
これもまたひどく強烈になります。
”言い訳がしたい”
”説明がしたい”
”代替え案をあげたい”
”やっぱりしてあげるべきか”
”映画に行こう!” 


この衝動に対して、私は完全に力を抜いて、打たれっぱなしになります。
多くの場合、思考の形になる前に、焦燥感や不安感、その前の体のセンセーション(言葉にならないモヤモヤ、体の中の落ち着かない感じ、走る衝動、肩の力み)の段階で。

それに沿って行動したい衝動と真反対に。
それと戦って制覇したい、コントロールしたい、
乗り越えたい、変えたい、
という衝動と真反対に。


「そうしたらどうなるの?」


という解決策思考はマインドのもので、

ただあることはただ”在る”こと、それだけです。

マインドにとっては非常に残念なことですが(笑)。


それだけです。


そして気づいたら、何かをしている時もある。
何かを言ってる時もある。

その何かが喜ばれたり、感謝されたり、”私”に満足できるもので
あったりすると、

今後は逆の風向きの嵐が大きくおきます。
恍惚の嵐
いい気分の嵐
愛の嵐
ふわっと光に包まれているかのような
”ああ、よかったわ”


また、やってることのすべてを止めます。


愛と呼ばれるものも、痛みと呼ばれるものも、
可能にしているものは同じであるか、
見てみます。

愛の周りではそれは濃くて、
痛みの周りではそれは薄いのか、
見てみます。

”私”が何かをしてそれを増やせるのか、
確認してみます。

増やせるなら、それは移ろいゆくもので、
唯一不変のものではないことを
また確認します。


すべてに、常に、たゆみない、一点の間違いもない動きが起きていて、

それには、”私”が思考を使って盛り立てる感情のエネルギーは、
まったく不要であるのを、何度も何度も気がつきます。

気づくたびに、より精妙なレベルで本当であるのに気づきます。


こういう確認の機会が起きることに、ありがたい、という思いがわきます。

2017年1月19日木曜日

明けましておめでとうございます / オープン・シークレット3

すっかり明けきってからのご挨拶となってしまいましたが、みなさん、良いお正月を過ごされましたか?

今年は正月の空気を求めて、テレビでNYタイムズスクウェアのカウントダウンを見守ったのに、肝心の、新年と同時にボールが落ちるとことは放映されず、”なんじゃこりゃ!!”と叫んで新しい年を始めることとなりました (^^;)。

ブログを読んでくださってありがとうございます。
今年もよろしくお願いします。

*****

新年初ポストは、昨年からまだ続く、トニー・パーソンズのオープン・シークレット(^^)。日本語版をゆっくり読んでいるのですが、、、


腹にドスンときました。

びっくり。


私にとっては日本語が母国語なので、英語で読むのとはやはりまた違ったインパクトがあります。

トニーというのは不思議な人で、いろんな色にあふれています。メッセージは一つでも、表現には、喜びだけであろうとかそういう作為的なものは一切なく、生命が流れるままにすべて表現するからです。すべての表現で”ある”からです。

軽やかで容赦がなく、優しくて意地悪です。

それはすべてに分離を見ていないからです。

どれが上でどれが下、どれが善でどれが悪、という観念が存在していないからです。

その独特に透明な豊かさは、ビデオや本からは伝わりきれず、私は実物は大好きですが、ビデオとかは退屈に思うことがよくあります。誰でもそうだろうけど、彼は特にギャップが大きいと思います(あくまで私見)。

そんなトニーの本ですし、ましてやまったく異なる言語を、まったく同じに翻訳することなどありえません。翻訳者を通過してそれがどんな風に変換・表現されるか、そしてさらに私というフィルターを通って、どんな風に受け止められるか、、、、私たちのコミュニケーションってやつは、他のすべて同様、とんでもない奇跡の技が起きてるわけですね。

日本語版は、トニーから表現される妥協のなさ、強靭さといった、最も大切な要素が直球で伝わる本だと思いました。

母国語の滑らかさに、気づかぬうちに引き込まれて没頭していたら、ドン、とみぞおちにキックを食らってはっと我に返りました。いや、びっくりしたー(笑)。

他の方も書いていたと思いますが、私は”はじめに”が特に大好きなんですね。初めて読んだ時はとてもショックでした。

英語の原版と並べ読みして、原書から頭に抱いてたイメージと、ひろさんの訳を比べ、じっと黙想してみたりするという、超マニアックな読み方を続けています。

ひろさん、ありがとうー!