2017年2月28日火曜日

五蘊 / ”私”の科学

バーナデット・ロバーツは、

”ものごとの渦中にある時は、それが何であるのか理解することはできない。
失ったとき、過ぎ去ったときに振り返って初めて、理解することができる。”

ということを言います。

エゴを機能基盤として生きているときに、エゴが何か、
その特性や働きを理解することはできない、

自己という感覚の中で生きているときに、自己とは何か、
その特性や働きを理解することはできない、

と繰り返し主張します。


彼女は、”自己を完全に失う”という経験が起きたのち、自分に起きたことを理解しようとして、手当たり次第の文献を手に取って勉強しました。

その中の一つが仏教の教えですが、その中で自己、”私”の構成を描写した
五蘊を目にしたとき、最初は”正確な描写であるけれど、これも違う!”
と放り出しました。

その後ふと、
「”私”を構成している要素を正確に描写するのは、自己を超えないと不可能」
ということに気がつき、これを書いた人は自己の喪失を経験したに違いない、と
気づくに至ったそうです。

彼女は、
”仏教の教えの中で最大の価値があるのは五蘊だ。それ以外は知る必要ない”
とまで言っています。

このあたりはとてもバーナデットらしいのですが・・・


それはさておき、

最近この部分がまた気になって再読し、そこから五蘊について調べてみたところ、
ウェブですごくいい記事をいくつか見つけました。

これこれ

特に2番目の記事、ベストアンサーに選ばれたjojon_folkさんの回答には、そのさらりとした深みにびっくりしました。だって、yahoo知恵袋ですよ!仏教サイトでもブログでもない。笑

アマゾンのレビューなどで、たまに書いている人の経験や智慧の深さにびっくりすることがありますが、こういう風に何者でもなく、ただ深い智慧とともに生きている人というのが、いつでもどこかにいるんだよなぁ、と深く感じ入りました(蓋を開けたらどこかの有名な人とか、先生とかだったりするかもしれないけど。笑)

”実体とは、そのものの主体であり、常にあり、そして他に依らずそれ自体であるもののことです。見られたもの(客体)、生じたり滅したりするもの(無常)、縁起に依るものを実体とは呼びません。・・・・・(略)・・・・・

五蘊を空と観ることは、深い思惟によって得ることができます。分かるというよりも、気づくという体験です。気にしていれば、気づく時がきます。

合掌” yahoo知恵袋より抜粋


溶けました。


英語で読む仏教はすっきりして論理的でとても好きなのですが、
日本語で書かれた、深い智慧を含む記事に当たると、この深さは英語では伝えられていないのによく気づきます。般若心経はいい例ですが、今回みたいな記事に出会う時、日本人でよかった、日本語が読めてよかったぁ、と深い感謝が湧きます。


最初の記事は仏教サイトのよく名の知れた長老の記事ですが、私は、この方の仏教の定義が好きです(これは五蘊とは別のページ)。

仏教は科学であり、概念でも信仰でもない。
誰にとってもいつの時代も何によっても変わるはずのない真理を、
自分で手にとって実験して体験により確認するためのものである、


というのが、私が理解した内容の要約です。


良い記事に出会いました。

********

しばらく前からナショナル・ジオグラフィックの「ブレイン・ゲーム」という番組にはまっています。

”私にとっての真実”がいかに現実と一致しない、あてにならないものであるかを、科学の観点から説明しているのですが、ゲームとともに実体験で”私の感覚”のあてにならさを見ていくのは、なかなかショッキングで目が覚める感じです。

日本のNetflixにあるかな?おすすめします。


2017年2月19日日曜日

確認


”おそらく、この在り方を最もよく表す言葉は’強さ’です。継続的で、受身的な感じの、中心にある内的な強さです。” 
– バーナデット・ロバーツ「The Path to No-Self」





ここチャタヌがは、冬をほとんど飛び越して、春になってしまったような感じです。

今年は年明けからすごい嵐が続いています。

新大統領就任にまつわる嵐もそうですし、

個人的にも、ここ何年もなかったような大嵐が家族内で起きています。
(記憶がどんどん曖昧になっていくので、多分、ここ何年でなかった大きな出来事だと思う、というのが現状ではありますが (^^;) )

こういう時に、なにが”現実”なのかをチェックしてみることは、
私にとってはとても大切なことです。

例えば頭の中で ”これはこうでとんでもない!”とか、
”それは嫌!” とかいう思考が湧いて、
それがしつこかったり、音量が異常に大きかったりしたら、


やってることのすべてを止めます。


頭の中の嵐と、目の前の花の静けさと。
その両方を等しく可能にしているものを
ちょっと見てみます。
どちらを存在させているのも、
どちらに存在する力を与えているのも
まったく同じものであること
を見てみます。新たに発見します。

ふと意識がそれると、次の瞬間注意がまたそこに引き戻されるまで、
嵐は存在もしていないこと、
を確認します。新たに発見します。

例えば体の中に緊急感を伴うセンセーションが湧いて、
それに伴って”これをすべきよ!” という思考がわいたから

その衝動に従って即行動、というのはまずありません。

この感覚には異常な説得力があり、”今すぐ”何かをしなくてはいけない、
”今がその時なんだ”、と訴えます。

今すぐやらないといけない、今言わないといけない、
外しちゃいけない、逃しちゃいけない。。。。

それは例えば誰かを助けなくてはいけない、
教えてあげないといけない、
何かしてあげなくちゃいけない、

という思いの時もありますし、
逆に、できない、いやだ、
と言った後の罪悪感の逆風の場合もあります。
(できない、いやだ、自体には苦しみはありません。)

私はマインドが「できない」と言いたいとき、
本当にできないのか、「したくない」だけなのか、
しぶとく自分の中で確認し(多くの場合、私の中の”できない”、は”したくない”、
の綺麗なごまかし表現だったりするので)、
”したくない”が本当の場合はそれをはっきり伝えるようにするので、
その後の罪悪感の逆風も強烈だったりします。
(繰り返しーしたくない、には痛みはありません。その後の余波は
注意を奪われると苦しみに満ちています。)

その強烈な不快感から逃れるために、”何かをしたい思い”が、
これもまたひどく強烈になります。
”言い訳がしたい”
”説明がしたい”
”代替え案をあげたい”
”やっぱりしてあげるべきか”
”映画に行こう!” 


この衝動に対して、私は完全に力を抜いて、打たれっぱなしになります。
多くの場合、思考の形になる前に、焦燥感や不安感、その前の体のセンセーション(言葉にならないモヤモヤ、体の中の落ち着かない感じ、走る衝動、肩の力み)の段階で。

それに沿って行動したい衝動と真反対に。
それと戦って制覇したい、コントロールしたい、
乗り越えたい、変えたい、
という衝動と真反対に。


「そうしたらどうなるの?」


という解決策思考はマインドのもので、

ただあることはただ”在る”こと、それだけです。

マインドにとっては非常に残念なことですが(笑)。


それだけです。


そして気づいたら、何かをしている時もある。
何かを言ってる時もある。

その何かが喜ばれたり、感謝されたり、”私”に満足できるもので
あったりすると、

今後は逆の風向きの嵐が大きくおきます。
恍惚の嵐
いい気分の嵐
愛の嵐
ふわっと光に包まれているかのような
”ああ、よかったわ”


また、やってることのすべてを止めます。


愛と呼ばれるものも、痛みと呼ばれるものも、
可能にしているものは同じであるか、
見てみます。

愛の周りではそれは濃くて、
痛みの周りではそれは薄いのか、
見てみます。

”私”が何かをしてそれを増やせるのか、
確認してみます。

増やせるなら、それは移ろいゆくもので、
唯一不変のものではないことを
また確認します。


すべてに、常に、たゆみない、一点の間違いもない動きが起きていて、

それには、”私”が思考を使って盛り立てる感情のエネルギーは、
まったく不要であるのを、何度も何度も気がつきます。

気づくたびに、より精妙なレベルで本当であるのに気づきます。


こういう確認の機会が起きることに、ありがたい、という思いがわきます。