2018年2月21日水曜日

成長のらせん 1 〜悟りの利点、欠点って?

前回書いたアメリカ人の研究者(ジェフリー・マーティン)のビデオに、”悟りによる恩恵とはなにか”、また、”悟りの欠点とはなにか?”というテーマのものがあります。

悟り、目覚め、ってみんな言うけど、悟ったら何が一体よくなるの?
どんな得があるの?

悟りの副作用、欠点、難点は?

ジェフリーは、目覚めの恩恵・メリットは、意識の主体的基盤が”何かがおかしい、見張っていないと、、、”という人間の条件付けの問題である、恐れ、欠乏感から、”人生は実際、OKだよな”というものに移行することだ、といいます。

また自分に関する思考(主にネガティブな傾向にある)が減る、もしくはその思考の影響力が減ることによって、気分の揺れ動きが減る、ネガティブな感情が起きたとき、それが早く過ぎるようになる、ネガティブな思考に縛られない結果、マインドがより効率よく働くようになる、人生がよりスムーズに流れるようになる、といったことも挙げています。

これらは他でもよく言われていることで、色々なスピリッチュアルメソッドの売り文句にもなっていることですから(アセンションでも言います)、特に新しいことではありませんが、ちょっと笑えたのは、

”誰も悟りの前の状態に戻るために努力している人がいない”

という彼の指摘です。

移行の経験が辛かった、という話は聞いても、その後”こんなんじゃ割に合わないよ〜。なんとかして元に戻れないかな?”とか、

”こんなん、最悪”とか

”必死に頑張って僕の元の苦しみや、うつ状態に戻れた!よかったよ〜!”

という話は聞かない、少なくとも聞いたことがない、
というんですね。

笑。確かに私も聞いたことはないです。

だから安心して、その一歩を踏み出していいんだよ、というのが彼のメッセージでした。

*****

自分にとってはどうだったかなぁ、とちょっと考えてみました。

悟りの利点はなんだろう、悟りに向かって努力する価値はあるのか、やたらと考えていた時期があったのを思い出します。
”向こうに渡る価値はあるのだろうか?”
”ここより絶対、数十倍いい、という保証”を得よう、そうしたら渡る事を考えてもいい。

色んなキラキラした話は聞いたけど、いざ渡ることを考えると、向こうに何があるのかさっぱりわからなかったからです。

”そんな風に行くもんじゃないわ。まず決意が先にあって、すべては後から付いてくるのよ”、と我が師に言われましたが、それはこれまで習って身につけた、”賢い生き方”に見合ったものとは思われませんでした。

実際はどうだったのか?

そもそも、”渡る”ということは起きませんでした。
  
押されたり
蹴つまずいたり

自分は渡ってるのか、今どこにいるのか、どれくらい上手に渡れているのか、

等々という考えが大事じゃなくなり、
さらにほとんど起きなくなって、
すっかり意味を失いました。

でもこうやってきっかけがあった今、あたりを見回して、振り返って見るなら、
”悟り”なんて言葉を知らなかった時、
”悟り”を追いかけていた時、と
今は、まったく違う人生だと言えます。

”あーよかった、前とは違ってすごく人生がよくなったわ”
という思考がわかないくらい、それが当たり前になっている、
そのこと自体、すごいことかも知れません。

比べる、という感覚がかなり落ちてしまって、後ろ(過去)や前(未来)を見張っていないので、
”あー、そう言われて見れば、昔は人生大変で辛かったんだっけ”
が近い感覚です。

これは人生にチャレンジ(いわゆる嫌なこと)が起きないのとは、まったく違います。
好みに合わないこと、厳しい状況は起きます。
ただそれを思いづつける、考え続け、対策を取り、結果を見張る、という習慣が落ちてしまった。

どこで落ちたのか、さっぱりわかりませんし、それが二度と返ってこない保証もありません。
ただ、それを心配する能力がありません。
心配が起きても、不安が起きても、長続きしません。
喜びも同様です。
素敵な出来事をなんども反芻して味わい、いつまでも浸るということがなくなりました。

こんなことをいうと、ひどくドライで無感情なイメージを与えるかも知れませんが、
日常の経験はむしろ逆です。

買い物に行くと、例えば目に入る人すべての美しさにハッとします。
”なんて綺麗な髪なの”
”すごい綺麗な肌〜”から、存在そのものの美しさに打たれたりして圧倒されそうになります。そして次の瞬間に、
”あ、そうそう、ものの美しさがやたらと引き立って見えちゃうんだったね”、とはたと我に返ったりします。

少し前だと、”どうしてこんなに美しく見えるのか”、であるとか、恍惚感とかに陶酔する、ということがよくありましたが、そういう自己反芻はありません。

ささやかな日常のこと、
調子の落ちたエスプレッソ・マシーンを、ビデオを見ながら分解して掃除してみる、
とか、気が付いたところを掃除するとか、そんな些細なことを、上の空でなく、ごく自然に100パーセント注意を注いで行っている、そのすべての過程・動きに、止めようもない深い充足感がある。

これは確かに、昔とはまったく違う生き方です。

じゃぁ、私は悟ったのか。愚問です。

どういう風に問いを解釈したらいいのか、取り掛かりようもない気がするのが実感です。

自分に関しても、周りに関しても、名札はなくなるばかりだし。

いずれにしても、自らの自然な本質に返るのが目覚めであるなら、損とか不利とか、あるわけありませんよね。(^^)